アマチュアのためのシナリオ試論:原稿

まず

 2022年の初めに、光栄にもラジオ出演させていただく機会を頂きました。

 本当は一時間ほどで終わるかと思っていたのですが、午後九時半から、終わったのは深夜一時前と、三時間ほどぶっ通しで喋るという気の狂った結果になってしまいました。大変楽しかったです。

 タイムシフト機能がないので、配信は言いっ放しになった訳ですが、原稿をここに提示することで、内容の再確認に使ってもらえればと思い記事化しました。

 実際は口頭で分かり易く言葉を補いながら喋ったため、完全な内容は、聞いてくださった方の特権という事で……

 以下。

 

マチュアのためのシナリオ試論

 自己紹介

 Magenic_Cafe代表 まフェです。
 オリジナルの創作をやったりしていて、全国50万人の「ウマ娘マンハッタンカフェがボクっこだったら正気を保てなかっただろう同盟」の一員であり、「お前のアニソンのプレイリスト、菅野よう子澤野弘之ばっかりじゃね学会」の会員です。
 よろしくお願いします。

 前口上


 これからシナリオについて話す
 プロ向けのシナリオ論ではない


マチュアとは

 金を稼いでも、稼がなくても、作っても作らなくても自由 縛りがないのがアマチュア

プロとは?

 ある要望に対して、成果物を顧客の我慢できる程度の時間で提供して、報酬を得る振舞い。
 某漫画家は顧客が待ってるからプロ漫画家で居られる。顧客に要望され、それにこたえるのがプロ。
 プロ向けのシナリオ論、とは、顧客次第となるが、迅速に提供することが肝になる。
 例えば、ある程度得意なジャンルが偏っていたとしても、使う側が選んでくるし、会議もあるので、その中で柔軟にものを生み出していく発想力とコミュニケーション力、構成力がものをいう……と思う。

 SIROBAKOとか見ればいいんじゃないかな。

 

 アマチュアは、そういった縛りはない。縛りがないからこそ、間違いがないので、楽だし、逆に答えがないから難しい。
  迷う。そういう迷いを解消する手掛かりになればうれしい。

シナリオって何のためにあるの?

 ・・・★(人に内容を共有する為的な)

 シナリオは、一人で全部わかってる以上要らない!

 終 製作著作 せとらじ
  
 は、冗談として、アマチュアの作品は超短編とかもあるので
 実際にはシナリオと、物語と、シチュエーション設定がないまぜになりがち。
 厳密なシナリオの技法について語れば、原稿用紙の使い方だとか、行は何段空けるだとか、何枚何分だという話に
 今回はあくまでシナリオ試論ということで、物語論を含む内容になっている。
 積極的にアマチュアが、シナリオをかくときに手助けになるような話をしたい
 あまりにも原理的過ぎて、バカバカしい話になるかもしれない
 具体的な技術論は後半に

 

シナリオには長さがある

  長編、中編、短編、超短編
  シナリオと演出の境目は(アマチュアにおいては)曖昧
  映像そのものとシナリオ(テキスト)の、役割分担にも決まりがない
  共通するシナリオ論の構築は可能か?
  最小単位を追求してみる
  


シナリオとは何か?

 シナリオは3行で良い?
 物語の定義

「ある秩序が破られ、混沌を経て、再びまた秩序へと戻る経過」
 その簡素化へ
「ある出来事が、始まって、終わる」
 簡素化の結果見えてくるテーゼ 物語の最小単位とは
「出来事が記述されていれば、シナリオである」
 すなわち
「ある出来事の始まり、(経過)、終わり」
 が記述されていれば、それは最小単位のシナリオと言ってよい

 シナリオの最小単位は、前提状態+駆動状態+終了状態の3つの記述である。
 また、前提状態と終了状態から、駆動状態が自明に導けるのであれば、記述は前提状態と終了状態の2行で済む場合もある。
   
 どんなに拙いシナリオでも、短くとも、シナリオを名乗ってもいい
 尻切れトンボでも、片付いた所までを見れば、(出来はともかく)シナリオと言える。

 とにかく誰でも、シナリオは書くことができる。
   

 なお、5W1Hは、出来事の前提状態と駆動状態の記述法である。あるいはある状態の記述。一枚絵を描くときでも使える。
 ここには終了状態が含まれておらず、伝聞には適しているが、物語の記述としては不完全な部分があると考える。

(例えば、時津風アーボックに締め付けられる、と言うテーゼはある状態を示している。これが「もう五年ほど前の話だが、時津風トキワの森を通り過ぎたとき、突然出てきたアーボックに絡みつかれ、そのまま丸呑みにされてしまった。そのアーボックは今でもそこに居るらしい」となると、お話になる)
 使いやすい方を使えばよい。   


シナリオじゃなくてプロットだって?

 きにするな! まあ詳述の差でしかない。
 そもそもなぜ脚本が必要なのか
 芝居の場合は役者に説明しなければならないし、セリフも必要
 それらを相手に理解してもらうために書くもの。そのために必要なレベルの詳述は場合による。
 だが、アマチュアでは役者を使うかわからないし、自分で済ませてしまうかもしれない。台詞がないかもしれないし、アニメなら芝居は全部自分でつけることになる。
 そもそも舞台ですら、大筋のセリフの流れだけで、あとはアドリブと言う場合もある
 うる星やつらビューティフルドリーマーのメガネの長セリフが全部アドリブ
 それでも脚本
 脚本内にも詳述される部分とされない部分がある。
 なのでそこを厳密に分ける意味は正直あまり感じない

   
 なぜこんなにも簡単な所から話を始めたのか?

   
 アマチュアの創作は
 何を作ってもいい
 つまらないもの、下らないもの、どうしようもないもの、完結しないもの、人を傷つけるようなもの、何でも作る権利がある。
 なぜなら、その出来事を3行記述しただけで、もはやそこにはシナリオが存在している。
 たった3行の空想的記述は、誰にも止めることはできない。
  
 その影響力については、ノストラダムスの大予言
「世紀末に恐怖の大王が顕れて世界が滅びる」という短いテーゼが猛威を振るった例がある。
 なぜ自殺者まで出たこれが許されて、直近の個人の創作が叩かれるのか、考えてみるのもおもしろい。
  
 ただし、お金を稼ぎたい、注目されたいなど、「表現が手段としての性格を帯びる」とき、その手段としての適切、不適切は問われることになる。芸術はしばしば目的ー手段の連続性を模索していると言ってもよい。
 しかし、最適化されていないからと言って、それが間違いにはならない。
 創作の到達範囲はときに作者の想定を超える。


 一歩先のレベルへ


 前提・駆動・終了の3つの状態を記述すれば、シナリオたりうる。
 この構造を見れば、前提、駆動、終了のいずれにも詳述のバランスが崩れると手落ちが発生することが判る。

 前提ばかり多くて駆動状態や終了状態で回収不足になるのは分かり易いが
 駆動状態で現れた事象が、なぜ現れたのかの前提が足りない場合(ああ、そう言うのアリな世界観だったんだ)
 途中まであったラインが終了時になかったことになってる(力尽き・放り投げ)
 なぜかある出来事が物語の終了状態に存在しているなど(異次元ワープ・ジェロニモ分身(幽体離脱))

 あくまでも、まとまりのある話を作る際にはこの三形態の情報を丁寧に結んでおくことが大事だ。
 (別にまとまってなくてもそれはそれで面白いので良い。それらはしばしば想像の余地として愛される)
  
 シナリオは、大きな3形態の詳述でも良いし、小さな三形態の積み重ねでも良い。
 アニメーションの中割と送り書きのようなイメージ。上手く使い分ければよい。

  

 シナリオの描くべきもの

 シナリオはシンプルな記述でかまわない。だが、そこに記述される内容は、どのように選別されるべきだろうか?
 ここからは、シナリオ論ではなく物語論になる。
 単純化のために、歴史を振り返っていく。

  
 物語のはじまり

 大昔、人間には理解できない自然現象や、出来事を理解するために、人間は色々な想像で、理由付けを行った。
 それが、物語のはじまりです。
 ……ウソだよね。あえて言うなら、それは宗教のはじまりや、神様のはじまり、あるいは作り物語のはじまりと言うべきであって、人間の想像力が実在しない存在を生み出すより前にも、人はモノを語ってたはずだ。(あるいは空想も”事実”として語っていた)

 例えば、先史時代。ある男が話している。
「ここからまっすぐ進んで、向こうの三本の木を過ぎて大岩の方へ曲がると、急に崖になっている箇所があった。一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだったが、無事にこうして帰ってきた」
 この中には沢山の情報が含まれている。(自分語りでは前提状態や終了状態はしばしば簡略化される)
 こうした、出来事を言葉で伝えあうことが、より本来の物語のはじまりであっただろう。そして、話を盛ったり、ウソをついたり、あるいは空想を交えたりしながら、物語は発展していった。

 その歴史的積み重ねのうちに「おもしろい話とつまんない話がある」と判ってくる。

 人間には個人差があれど探求の本能があるから、好奇心や想像力を刺激される情報であるかどうか(既知であるか)、というポイントはすぐに思いつくだろう。

 

 だが、もっともっと視聴者がのめりこむ部分があった。
 娯楽の少ない時代に、この要素は人を熱中させ、中毒にするレベルの力を持っていたと思われる。
 それが、感情移入と追体験である。(一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだった)


 感情移入、とは何か

 長い間、物語や劇作の重要事は「視聴者の感情を激しく揺さぶる」ことだった。
 そのために最も有力な方法が、感情移入である。
 視聴者が作中の出来事を”自分事”としてシンクロし、烈しい戦いや激動の恋愛を体験した気持ちになり、感情を満たす。      

 人間は感情の生き物。感情が動くと、それだけで充足感を得る事ができる。
 だから、大概の話は「目新しい事物を出して興味を引き、わかりやすい恋愛などの話に落とし込む」構造になっている。(今でもそう)
   
 ギリシア悲劇の時代。職業としての劇作家は、プロの演者とともに観客を魅了するため、その頭脳を最大限発揮した。
 大衆を熱狂させたシステムは、カタルシスアリストテレスが言ったらしいよ。★
 観客の鬱屈を、劇中の感情移入を用いて高揚させ、悲劇的結末によってそれらを一気に崩壊させる。
 歴史の中で、物語の娯楽的性格の分析と凝縮が行われた結果、ギリシアではすでに、感情移入と物語の効用が、政治的に利用されるまでになっていた。
   
 しかし感情移入は、あくまでも「視聴者の感情を揺さぶる為の最強武器(人権環境)」
 それ自体が目的ではない事に注意する必要があるし、感情移入できない作品はクソ、とか言うのは逆に恥ずかしい。
 原価厨とかコスパ厨、環境構築に課金できない奴は論外とか言ってるやつに近い。
 後半また言及する。


  異化効果


 娯楽が少ないうちには、感情移入で人の心をがっちりつかめばその作品は、「優れた娯楽」として、誰にも長く語られる名作で居られた。
 しかし、システム化が進んだことで(あるいは社会が発展したことで)楽しめるけど何にも残らない娯楽作品が世の中にあふれるようになってきた。
 物語は、人々を一時的に慰めたり勇気づけたりはするけれど、役には立たない。
 だが、物語の効能は、感情移入だけではなかったのではないか。

 

 ブレヒトと言う人が、異化効果という事を言い出した。叙事演劇を標榜した。
 三文オペラでは、辛い展開の後、唐突なご都合主義のハッピーエンドで終わる。
 そして最後の唄では
「ちょっとくらいは大目に見ろよ、世の中はあんまり寒いじゃないか、この世界の谷間には、嘆きの声が響き渡ってる」と歌う。(意訳)
 視聴者は??? と思いながらも、その歌詞を意味を、劇場から出たときに知る。
 そういえば、現実もひどいことばっかりだ、寒い世の中とはこの現実のことなんだ。嘆きの声を私たちは、聞いているようで聞き流していたのだ。そして、芝居と違ってこの世界には都合のいい救いなんてないんだ……

 つまり、劇がただ感情を充足させておしまい、という消費のされ方をするのでなくて、この現実世界を捉えるための考えるきっかけを与えている。

 

作品を見る事で「新しい視点」を視聴者が手に入れる。これが異化効果。


 ブレヒトは、第四の壁の提唱者でもあるらしい。★第四の壁って何? 第一~第三の壁は何?
 実は、古い演劇は様々な要素を雑多に含んでいた。だが、時代とともにそれが洗練されると同時に形骸化していった、と、ブレヒトは考えたのだった
   
 高畑勲はこういった理知的な劇要素をアニメーションに持ち込んだ。
 火垂るの墓の過去のインタビューで、兄の振る舞いが自分勝手に思えるような時代が来ることを予言していたらしい
 作品の方が、視聴者を図っているような、そういう視点を持っていた。
 社会と作品との関係性を強く意識していた。   


  分析的に有名な二つの例を挙げたが、結局何がなされれば理想なのか


「人を感動させたい」「人を絶望させたい」「楽しませたい」→「人の感情を動かしたい」
「人に新しい物事の視方を提供したい」
 目指すことは立派である。理想はそれぞれで良い。
 だが、物語そのものの本質的価値は「人の感情を動かす事」にあるのか?
 つまらない作品は、存在してはいけないのか?
 商業では、あくまでも商業的な理由を外部要因として作品が生産されうる
 つまらない作品にも、商業的価値が存在する

 個人製作はどうか?
 お金のためならばそれはそれでよい。また、自己充足的な作品づくりも一つの在り方だ。
 だが、あくまで他者に発表するときに、その作品がなにを成し得れば、我々は満足と言うべきなのか
 視聴者の受け止め方は指定できないし、作者の理想も様々。
 古代の物語へと立ち返ってみよう。

「ここからまっすぐ進んで、向こうの三本の木を過ぎて大岩の方へ曲がると、急に崖になっている箇所があった。一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだったが、無事にこうして帰ってきた」
 ここに含まれるのは、
 地理情報、好奇心の刺激、感情移入、危険の指摘、自己の強さの誇示……
 これによって感情移入も行われうるし、物語を追って聞くことで、現実の地理情報が塗り替えられ、そこからの連想で、現実に対しての新しいものの見方が提供されるかもしれない(異化効果)
 話し手が無事帰ってきたことが称賛されるかもしれないし、逆に闘争心を掻き立てるかもしれない
 洗練されていない物語は、様々な要素を最初から豊かに含んでいる。

 

 プレーンな出来事の記述(叙述)でも、「発することによって、何か が伝わる」

 

「よう」と「ごきげんよう」 挨拶一つでもなにかが伝わる。声のトーンや言葉遣い。
 極めて短いコミュニケーションでも成り立つこと
「発することで、何かが伝わる」物語表現は、人間にとって決して特別なことではない。


【物語は、「出来事の記述・叙述」で「何か」を伝えるという、ありふれたコミュニケーション行為の一つ】であり、重要なのは、

 そこには表現の妥当性はあっても、そのやり取りによって表されるべき理想的な何かなどは、本質的には存在しないということ。
 (挨拶によって表される理想的な何かとは???)
 物語は、すべからくこれを表していなければならないとか、こういう要素がなければ物語とは言えないとか
 ××を成し得ている物語は理想的である、とかは、個人の理想像でしかない。


 すべての前段階として、我々は何かが伝わる出来事を選んで、記述するところから始まる
 そして、それは自分の好きに選んでよいし、その記述はどれだけ簡素でも良い(自分一人で作る場合は) 
       
 相手にどう受け止めてほしいか、という意識は、自分の理想に従って物語を演出するところから始まる

 

以上を原則論として

プレーンな物語

 話をシナリオ論に戻そう。とにかく最低限のシナリオとは、
 他者に何かを伝えるために、出来事を、前提・駆動・終了の三形態で記述したものである。
 そして、それ以降の発展は全く自由で良い。
   
 ただし、これではあくまでプレーンな記述形態でしかない。
 ここからは、それを自分の造りたい形態や、伝えたい物の照準を絞るために、どのような技術があるかを考える。
 先ほどまでのはプレーンなパンの話。
 甘いと思わせたければあんパンを、昼食に食べてほしいと思えばサンドイッチを作るように、高度なシナリオは「出来事の記述」と言うパンを様々に味付けすることで成り立つ。

 そして最終的には、映像や役者さんの演技と言ったメインディッシュや付け合わせ、ドリンクを添えて、出来の良いディナーないしランチに仕立て上げるのが、目的となる

 このとき、シナリオはあくまで一つの要素であり
 例えば映像美があまりに斬新でビビッドであれば、シナリオはむしろプレーンな方がよい場合もある
 ベテランの役者さんのキャラクターの解釈が、シナリオの想定を超える場合もある
 最終的に素敵な食事を提供することが必要なのであれば、その時のシナリオの立ち位置は折々変わる
 シナリオに正解はないし、場合によっては途中で変化もするものだ
   
 高度なシナリオ、すなわち方向性を持ったシナリオを描く、という事は
 最終的な出来まで見通してシナリオの立ち位置を決めるという事でもある
   
 アマチュアの場合は、他の料理もみんな自前で揃えていくことになる
 最終的に作り過ぎで胸焼けする料理がテーブルから溢れんばかりに乗っている
 そういうのもアマチュアの醍醐味だ
 パン自体は向こうが透けるくらいうっすい食パンなのに、一緒に出てきたスープがとんでもなくうまい。これも面白い(孤独のグルメドラマ版)
 アンバランスな面白さは、アマチュアの特権。恐れる必要はない。
   
 もちろんプロのようなまとまったコスパの良い食事を提供したいのなら、勉強することだ
 プロの用意した食事を、料理ごとに分析してみよう。
 説明はどうやって行っている? 台詞の分量は? 間や演技は何を語る? キャラクターの分配は?
 劇場版CLANNAD とTV版
 劇場版ガルパン 劇場版まどマギ反逆の物語

 

 もちろん想像力を発揮しながら、テキストをかくのが一番の練習になるが、
 絵が浮かびにくく、努力が好きなタイプの方は、あるお気に入りのシーンを言葉で分解して、文章化し、どこまで言葉で書けばこのシーンを構築できるか、感覚をつかむのもよい
 そして、自分がどんなディナーに客を招待したいか、それを見通して、料理をそろえていく。   
  
 さて、テーブルの仕上がりを意識するとなったら、ここからは演出や、映像表現、芝居、それらを考えながらシナリオを描くことになる
 なので、ここからの話は厳密なシナリオ論ではない。特に演出と深くかかわる部分がある


  言葉のリズム

 シナリオは言葉で書かれる。しかし、ストーリーボードという手法もある。
 どちらがよいかは個人で選べばよい。ここでは主にセリフの書き方について話す。
   
 個人的な経験から言えば、シナリオ先行で描くと、細かい指示内容や、思想的な一貫性、厳密な伏線などは台詞によって補間しやすく、まとまったかっちりとした、いわゆる立派なシナリオになる。
 また、強い感情の込められた文章は、長く律動感があり、パワフルに響く。
 いわゆる名ゼリフは、こういった長いセリフに従った、感情の高ぶりから生まれる事がままある。
 視聴者にとっても長ゼリフは、共感を寄せていく段階が丁寧にあるので、感動しやすい。
 が、一方で、一文が長くなりやすく、説明台詞や長セリフを演出で誤魔化さなければならない場面が頻出しがち。
 映像をどう流して行くかを常に考えなければ、退屈な画面の連続になりかねない。
 せっかくの感動のシーンまで、観客がついてきてくれなければどうしようもない。
 シナリオを描き上げてから、映像にするまでに一旦それを解体する必要を感じる事が多い。
 演出に関しては、出崎統新房昭之新海誠などが参考になる
    
   
 一方で、ストーリーボード先行で書く場合、セリフは短く、画面と連動した躍動感を得て、ぽんぽんと進む軽快なリズム感を得る。
 また、長ゼリフでメリハリをつけやすくなり、映像全体の流れに大きく関与する。
 一方で、説明不足になりやすく、感情の流れに十分な補間がなければ、観客を置き去りにした唐突なセリフが飛び出す。
 また、絵を描いたり、頭に浮かべられないと前に進めない、という問題もある。
 なので、一度ストーリーボード先行を試してみて、言葉のリズム感を掴んだのち、流れの必要な部分でその感覚を用いるハイブリッドな用法がよいと思う。
 高畑勲富野由悠季宮崎駿などが参考になる
   
   
   例文1
   プレーン
●「敵を補足しましたが、相手はまだ私たちに気づいていません。戦闘には弾薬が足りないため、迂回してから目的地に向かって北上します」
★「悔しい、この船が万全なら負けない相手だった」
   
   長ゼリフ
●「1時方向距離230、敵の追撃部隊は我々にまだ気づいていないものと思われます。これより航路を反転し、迂回路を取って再び北上します。現在の魚雷装弾数では、会敵の際、生存率が極めて低いと考えられるため、退避を優先します」
★「残念だな。この船が本来の性能を発揮できる状態なら、奴らを翻弄できたのだが」
   
   短いセリフ
●「敵は?」
★「まだ距離あります、230」
●「弾は?」
★「残弾2発」
●「チクショウ! まともにやり合えば負けない相手だ!」
★「迂回して北上します」
●「大丈夫なんだろうな」
★「まだ気づかれていませんよ、上手くやります」

   


   例文2
    プレーン
●「何を怒っているんだ?」
★「ユーベンスという名の友人に裏切られて、俺は怒っているんだ」
   
   長ゼリフ
●「まったくわからないな。君がそれほどまでに怒って見せるなんて、少し取り乱し過ぎじゃないか。一体何があったんだ」
★「ああ、君なら分かってくれるだろう。そうとも、君以外の連中は全くわからずやだ。知っているだろうユーベンスのことを。僕の友達だ……いや、友達だった。大切なね。だが彼は、僕の心からの親切をフイにしたばかりか、その後ろ足で泥までかけて見せた。全く! 邪悪というのはああ言う奴のことを言うんだ、恩知らずだよ。僕がどれだけ彼のことを心配していたか……赦せない……許せないな!」
  
   短いセリフ
●「どうした? 震えてるぜ」
★「赦せないのさ」
●「何が」
★「ユーベンスが俺を裏切ったんだよ!」
   
  
   例文3
●「世界の終りだ、もう誰も助からない」
★「大丈夫です、信じましょう。愛がみんなを救うでしょう」
    
    長ゼリフ
●「見ろよ……空が黒雲に覆われて真っ暗だ。太陽が燃え尽きるんだ……この地球上にいるものはみな等しく滅び去る運命なんだよ……!」
★「……それでも、私は信じてみたいと思います。この地球が私たちの母なる星であることを。そして、その魂が私たちを救い給うことを……それはこの星の誰にも等しく降り注ぐ施し……そして、私たちもまた、その慈しみにみたされて育った、この星の全ての子供たちであることを……信じて、祈りを一つにすることで、私たちにもその力がある事を、私たちが大いなる母の力を受け継いでいることを、今こそ示しましょう!」
     
     短いセリフ
●「クソオオッ! 俺が仇を討つ!」
▲「よせ! ……もう無駄だ……」
■「……終わりだあ……」
★「……信じましょう」
●「信じるって! 今更何を!」
★「……まだ聞こえる……鼓動の音……勇者様!」

 


  ドラマを超簡単に作る方法

 ドラマとは? 
 高橋いさを 「葛藤である」
 木下順二「天命と人間が対峙した瞬間」
    
 単純化すれば、「対立、対峙はドラマの芽である」
 短いシナリオレベルでも、とにかく対立させてみる
    

●「きっと私は、ここで脱落するって決まってたんだよ」
★「……うん……」    
    

●「きっと私は、ここで脱落するって決まってたんだよ」
★「……そんなことないんじゃない?」

    
●「取舵一杯っ!」
★「いーや、右だね!」
●「なんだとっ!?」
    
 言葉の上であっても反発、対立には理由がある。
 理由が、キャラクターとともに対立という形でぱっと光が当たる。
 そのキャラクターの思考や、関係性がぐっと深まって見える。

 凸凹コンビがおもしろいのは、対立しながら、お互いの深い所をさらけ出すからだ。
 ずっと自己紹介をしてるようなもの。
 また、感情のボルテージが上がりやすく、展開的にも切り返す感じがあって人を驚かせる。
 流すところとのメリハリをつけて使う。   
 


  感情移入の作り方  

 そもそも、感情移入っていうけど、だれの感情が何にどこまで入ることを言うのか?
 よりもいのクライマックス、泣くけれども、それは、キャラクターが哀れでいじらしいと感じるからだ。
 別に自分事と感じた訳ではない。でも、それも感情移入だろう。
 自分は成人男性として、想像力で以てその物語の中に立ち、キャラクターを後ろで見守るような心持である
 だが、キャラクターと同じくらいの年齢の子供なら、物語中の自分の立ち位置は変わるだろう
 もっと小さければ、なぜ自分よりも大人であるお姉さんが泣くのか、仕組みも分からないであろう
 母を亡くした友人と、自分とで、移入する対象も違う。
 友人はその出来事によって、自分がその体験をしたように共感するだろう。
 この共感する、と言う言葉も怪しい。何となくわかる、と言うところから、まったく同じ感覚を幻覚するまである。
 感情の流れを破綻させずに伝える、という事と、感情移入は峻別されるようだけれど、単なる説明にも感情移入は発生する
 なんならキャラクターのなんの意図もないような一言が、急に胸に迫ってしまうこともある
   
 正直な話、感情移入とは、感情の流れを丁寧にたどれば、ある程度勝手に達成されるものである気がする
 そして、実はその正体は
「あるキャラクターの心の開示の瞬間を、視聴者の記憶を刺激して想起できる形で表し、視聴者に、そのキャラクターを理解した、心に触れたと感じさせること」
 なのではないか。

 

 あるキャラクターに対して、理解することを許された。
 相手と自分には心理的共通点がある。相手を自分の価値観で考えても大丈夫だという信頼・安心が、すでに読者の中にあり(キャラクターの行動が視聴者に理解できた積み重ねによる)その上でキャラクターの感情を暴露するような象徴的な出来事が起き、それが視聴者自身の経験と相似していた場合、自分の感情をもとに、心の中に仮想的に「キャラクターの感情」を作り出す。
 造られたキャラクターの心理には、裏に実際の答えはない(Vtuberとかにはあるけど)が、事象と流れと、感情的符号で以て、その働きを引き起こさせるのだ。
 だから、感情移入と言うよりは、「共鳴式心理創造」とでも言うべき方法論ではないのか。
   
   お手軽感情移入の方法

 何かを抱えているキャラを用意し、作中その抱えているものを小出しにする
 この時、キャラクターの目的や行動に整合性を持たせ、このキャラクターの行動や思考がある程度わかる、と言うところまで持っていく。
 キャラクターにとって重要と思える象徴的な出来事を起こし、それによってキャラクターの心理を開示する
 この心理は、想定する視聴者の経験していそうなものにする
 これによって視聴者の経験をもとに、視聴者の心の中に「キャラクターの感情」が作られる。


 
 目的学園の生徒たち

 キャラクターには目的を設定しましょう、ってどっかで読みませんでした?
 誰かの目的を聞いた瞬間に、その行く末が気になりますもんね。
 だからそれを読者にちゃんと開示しましょうって、聞いたことありません?
 それを出てくるキャラみんなに適用すると、すっごく便利です。
 あるキャラの目的が達成されたりされなかったり、葛藤したり喜んだり、これを複数キャラで次から次へと繰り返せば、面白さがずっと継続する。ちゃんと説明済みで順を追えば、感情移入もずっとできる。
 だからできるだけ早い段階で、出来るだけ沢山のキャラの目的を設定して、それを説明しておきましょう……
 迷ったり、無駄な動きをしたり、理解できない行動をしたりする、人間って結構無目的だ。あるいは無目的な中から、徐々に目的を見つけていく。ホントはそうだけど
 でも、そんな無駄な描写をされてもね、今の読者って忙しいんですよ。
 効率的な物語論、すごくたくさんあると思います。総動員して読者に喜んでもらいましょう。
    


でも待って? 本当にそれでいいの?

 技法は世の中に腐るほどある。自分の提供したい物をイメージし、うまく使いこなすことが大事。

 

 
最後に アマチュアイズム

 ここからは完全に主観的な話。

 物語として語るべき何かなどないと言った。物語は器だ。物語と言うだけで何かが決まることはない。
 外枠としての技術論や方法論や、固定観念があるだけだ。
 無論、その外枠を組み合わせて、出来の良い作品を仕上げて人の称賛を得るのも(やれるなら)悪いことではない。
 パズルでお金が貰えるなら、何よりと言う人もあるだろう。
 それは否定しないし、そうやってつくられたものにだって外部的には価値があり、時には人を救いさえするだろう。
 必死にやるから偉いなんてこともない。
 創作しなくても死なないし、ゲームも漫画も、アニメも小説も、一生読み切れないほどあふれている。
 車や釣り、スポーツと言った娯楽もある。恋愛や家庭に生きがいを見出す人もいる。
 金を稼ぐという行為に没頭する人もいる。
 自分の創作はそう言うもののうちの一つだろうか? 自分はなぜ創作をやるのか良く問うてみるといい。
 技術に優れ、なまじ人の騒ぐものを作れてしまい、じぶんが何をやりたいのか、本質的に何を考えているのかを見極める前に消費され尽くしたり、飽きて止めてしまったりする人が沢山いる。
 でも、それ自体は悲しいけど、悪いことでもない。変に入れ込めば狂いかねない。

 創作という行為を通じて、誰かに何かを伝えたいという欲求があるか。
 価値を届けたいという欲求があるか。
 もしあるならば、技術や巧拙に囚われるのはもったいない。
    
 始まりの欲求がどこにあれ、同じ物語を作る行為であり、外部的に見れば出来上がったものに差異はない。
 そこに優劣を決められる人もいない。

 ただ、作者だけが、その器に価値を注いだと知っている。抽象的な言葉なら、愛と言ってもいい。
 そして、読者にそれを見つけてもらうのを待っている。

 読者が、まるで古代の語りのように、目の前のだれかとの対話のように、物語を生々しく受け止める事ができたとき、愛を受け取った時、作者と読者は、極めて特殊な関係性で結ばれる。


 そして、注ぐべき価値は無限に自分を振り返り、問い続ける事でしか、定まってこない。
 長い長い時間がかかる。人生の状況やタイミングによって変わることもあるだろう。
 それでいい。
 アマチュアイズムはまさに、人生の瞬間瞬間に器に注がれた自分自身だ。
    


 物語は自分から生まれる。そして、誰かに伝えられる。
 どんなときでも、物語とは、出来事を語ることで何かを伝える、シンプルな行為であることを忘れずに
 作品は出来上がった瞬間独り歩きし、後は数字でしか追えなくなったりする。
 自分の喜びとして創作を続け、それによって自分を育て、自分の人生を救うために。
 声が誰かに届くことを信じて叫び続けるしかない。
 だけれど、焦ることはない。
 人生は長く、振り返ればこれまでの自分がすでに後ろに豊かに実をつけているのだ。
 そしてそれは、生きる限りずっと育っていく。
 忘れず、それを見つめて、上手く摘み取って熟成させれば、創作は一生の楽しみになる。
  
 創作の原初に立ち返って、勉強したり、快感に身をゆだねたりしながら、無理なく、自分の行きたいところまで行きましょう。
    
    
    以上

XR創作大賞お疲れさまでした!

皆さんおはこんにちばんわ(絶滅危惧Ⅱ類(DD))

 

 めちゃくちゃ久しぶりのブログ更新です。先日人生で初めて完結した漫画を描きました。それが意外と反応を頂きまして、うれしい限りです。

 

 本当は作品について連ツイしようと思ってたんですが、内容をまとめておこうと思います。

 

 と深夜2時に書き始め、早朝書き終えて勢いツイートして寝て起きたら、意味不明の怪文書がPCに遺されてて泣いちゃったので、とりあえず要約を書いていこうと思います。要約だけ読めばOKです。
 怪文書は最後の方に残しておくので、酔狂な人は読んでみてください。
 
 ざっくり時系列作品解説です。
 ただしほとんどが、作品投稿後に改めて考えたことです。
 結果として、以下に続くのは「あのエンディングを自分で納得する為の後出しじゃんけん」です。
 Fateに対するFateZeroみたいなもんです。将棋でいえば感想戦。とはいえ、何も考えないで漫画が描ける訳はないので、
 
 最初から考えていたことを青で。
 投稿後考え足した部分を赤で表示することにします。

 

 何となくどういう骨組みであの漫画ができていたかを読み取ってもらえるかなと思います。
 そして、この時系列は完全に私的なもので、皆さんの読み取ったものが正解であることを強調しておきたいと思います。赤の部分は完全に後付けなので、作品から読み取れる訳もないし、それに基づく解釈などは、妄想以外の何物でもありません。ただ、どうしても判らなかったな、判りたかったな、という方のために、解釈の一つとして提示するものです。
 前置きが長くなりました。
 

 


 舞台は近未来の日本です
 この時代では人口減少と労働の自動化で、生身の人間と逢わなくてもある程度暮らせます
 しかし政府としては、もっと軽率に出逢ってまぐわってもらわないと困る。
 民間企業もその方針に従い、マッチングシステムの開発が加速します。

 結果、ARやVRも含めて、ネット全体が出会い系サイトみたいになり、UIもシステムもどんどん俗っぽくなります
 若い人たちはそのダサさに辟易し、LiLy.sのような清潔感やら透明感やらが流行ります。

 アレクサンドリア主義者みたいな連中も出てきます。

 

 一方で、マッチングシステムの高度化で、社会全体でクラスタ化が進行し、各クラスタは急速にタコツボ化していきます。
 しかし、システムが上手いことクラスタを采配するため、大きなトラブルは起きずに、事態は深化していきます
 そのうち、クラスタ内のメンバーが各々自分勝手に振舞っても、不都合が出るどころか上手い事やれてしまうような、極まったクラスタが出現します。
 ここに至って、ただのお題目だった「全人格主義」が、限定的ながら成立することになりました


 極まったクラスタのメンバーは「やりたいこと(自意識)」と「やるべきこと(社会的役割)」が、完全に融合しています。
 これを、人間のカンペキな状態とみなし、次世代の幸福の形だと喧伝し始める勢力が顕れます。
 そして、カンペキを求めることが、新しい世代の処世術であると言いふらします
 無論このカンペキは、マッチングシステムの利用を前提とする為、システムの管理者たちは支持します。
 結果、プラットフォーム全体で、カンペキ(全人格主義の実現)がロマンの対象として受け入れられるようになります。

 

 カンペキなクラスタに所属すればカンペキな自分になれる、という発想から、カンペキなクラスタになるよう努力することが、カンペキな自分になること、みたいな言説が割と一般化します
 カンペキな自己=カンペキなクラスタ=カンペキなメンバー、努力とシステムの相乗効果で、もともとタコツボ化していたクラスタ内で、自他+環境の境界がどんどん曖昧になって行きます
 自意識と他者との相克がほとんど意識されなくなり、最適化が進めば進むほど、快適に、クラスタと自己は同一化していきます
 また同時に、個人の領域を超えて自己肯定感が強化されていきます。
 
 とまあ、そういうことが起こって20年程経ちました
 若い世代はカンペキの輝きを当然のものと思っています
 一方30代以上の世代では、「カンペキ」に疑念を持っている人も少なくありません。コミュニケーション能力の自殺的退廃であると言う人もいます。
 しかし若者の間では「より馴染む人と消耗せず暮らす事が人口減少社会で生産性を効率化させる手段である」という言説が支持されており世代間には大きな断絶が横たわっています
 
 さて、MZも主人公も、当然カンペキに憧れていました。
 一方で、エンジニアはそうでもありません彼にとってはネットよりも実在こそが重要でしたし、そもそも彼は40代で、クラスタの概念とかもなんかちょっと没頭はできないかな、みたいな。
 MZは死を悟った時、カンペキではないけれど楽しい自分のクラスタを壊さないように自分の死を隠します。
 自分とクラスタとがほとんど同価値になっているため、天使となっても自分が所属するクラスタが楽しく存続すれば、自分自身の存在も楽しく存続する、という感覚があったのです
 もちろん、エンジニアにはそこまでの切実さは理解しがたいものでした
 MZはエンジニアを信頼してリングを渡しますが、結果としては遺志を裏切られる形になります。
 主人公はMZへの不信クラスタへの不信を抱いて墓参りに向かいます
 しかし、エンジニアの激重感情によりMZは完全に死んだことが確定してしまいました
 また、現実の土着的クラスタとネット上のクラスタが、何の配慮もなく悪魔合体された様子に、主人公はだいぶショックを受けます。
 そこに在ったのは、MZのアイデンティティを粉砕し、独占してしまう強烈な他者=エンジニア=エゴでした。
 主人公は直感的にそのエゴを拒否し、同時に他者のエゴを強烈に否定する「自らのエゴ」に気づきます。 
 疎外された自己。そして他者を否定する自己。激しい自己のうめき声に、主人公は当惑します
 
 カンペキを求めるクラスタは内的に内的に、全人格主義を実現しようと努力しますが、そういうノリが合わない人もいます
 そういう人達は、ペルソナを駆使しながら腰掛的にクラスタを放浪します。
 安らぎなき流浪の民が用いるテクニックが「表現評価主義」です
 同質化した集団を渡り歩きながら、どこにも所属せず自己を保ち、他者と世界と自己とを、相対して捉える世界観です。
 疎外された自己の目覚め、対置する他者、事実としてのみ残るかつての友人であった死者。
 この相克の中で、主人公は世界が相対的であることを受け入れなければならなくなりました
 そしてそんな彼の下に舞い降りたのが、表現評価主義と架空との交錯点に生まれた火花、つまりは勝手な妄想の産物であるMZの幻影でした。
 現実、他者、世界、そのすべてに判らないことがあることを認め、あるいはそれを埋めようとする自らの妄想を認める。
 それが表現評価主義です。
 主人公は最後に、自らのエゴを自覚し、妄想に逃避する自分を自覚することで、相対世界の虚空を進んでいく術を手に入れたのでした。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

そうだね、サルトルだね!

 

ja.wikipedia.org

 

…要約なのにずいぶん長くなってしまいました。なんだか自分でも書いててよく判らなくなってきました。

 正直、僕はこの漫画を描いたときに、終わり方に納得できていませんでした。単に主人公が、現実もネットも他者なんて全部妄想や! と現実逃避して終わるように見えたからです。(そして本来的にはそのとおりです)
 ですが、意外にもたくさんの反響をいただき、少し考え込んでしまいました。
 何が、皆さんの琴線に触れたのだろう?
 もしかしたら作中の別のところが重要で、ラストはまあお目こぼし、というような感覚だったのでしょうか?
 こればっかりはわかりません。とても知りたいです。
 とにかく、ラストに何かしらの説得力を持たせなければ気が済みませんでした。
 僕なりの解釈が必要でした。
 その結果考え出されたのが上記の概要です。
 振り返ってみれば、マイクロ共同体主義新左翼の類似性やら、実存主義の勉強し直しと疎外された自己やら、そもそもがバーチャル美少女シンギュラリティを読んだ後感想書くために勉強した吉本隆明共同幻想やら、なんやら。
 物語は物語として、出来るだけ深入りしないと決めて描きましたが、解釈となると見えない連続性を自分の了見でつないでしまう。感想はまさにその人の知識領域以上の物にはならんです……
 
 それはそれとして、ですが。
 今回は本当に、自分が納得できていないものを出して、望外に反応を頂く、その結果改めて考える、と、表現がある種のコミュニケーションであることを実感した次第でした。やっぱり人に見せるのって大事やね。
 色々感想を頂けた皆さん。そして、今回このような機会を用意してくださった運営の皆さん、そして、この作品の一番最初の動機になってくれたバーチャル美少女ねむちゃんに感謝を述べて、いったん幕を引こうと思います。
 ありがとうございました。

 

以下、怪文書。概ね上記の概要を詳説したものです。

 

 先日投稿した拙作「ネット友達の墓参り行ってきたレポ」ですが、望外の反応を頂きまして、ただただ圧倒されつつ大変うれしく思っております。
 色々な感想を頂けた一方で「よく判らなかった」という声も散見しております、野暮かなあとは思いながら……何を所詮、アマチュアワークに過ぎないものが、なんだか立派になったと勘違いしてやがると正気を保って、作品を作る経緯と、構造や隠しネタ等全部話すことにしました。
 なお、以下の内容は最初からすべて自分で考えたのでなく、投稿後いただいた感想を読んで、逆にそういう話だったのか、と自ら気づいた部分、そしてそれを踏まえて考え足した部分が(大量に)含まれています。
 
 ゴタクは良いのでサクサク行きましょう。まずは作品のバックグラウンドです。ラストページで無理やり説明的に触れている部分もあるのですが、投稿後考えたことも含めて網羅すると、多分ほとんどこの構造が見えてる人はいないんじゃないだろうか。(というか見えてたらエスパーだ)
 見えてた人は心の中でほくそえんでください。あるいはツイートなりコメントなりで表明してもらえるとうれしいです。
 あなたが読み込んでくれたこと、あるいは、ぼくが表現として適切な情報提供ラインを攻められたということが判るからです。
 
 前提として、ややこしい単語を定義しておきます。
 「実在」:今回は人間の話なので生命機能に基づく肉体、およびそれに付随する社会的諸々です。現実存在のことですが、現実とは仮想とは、で定義合戦みたいになることもあるので、この単語を使います。
 「存在」:そこに在る、ということ。定義的には自己や他者の認識領域で共通して何かしらが認知されてること。
 
 まず、作中の世界は、近未来の日本を想定しています。
 先進国では人口減少が進み、また労働の自動化とともに【作中の主人公のようにほとんど生身の人と接触しなくとも生活できる】ようになっています。
 しかし、むしろ各国政府は少子化を喫緊課題として、人間同士の生身の出会いを奨励しています。そして、その重責を担っているのがインターネットです。
 つまり、国家総動員出会い系時代です。
 無論ネット接続のAR、VRシステムもその方向性に発展しており【ルバーブなんかはあんな下品なUIになっていて】一部の人間にはめちゃくちゃ不評です。それでもとにかく人と人とを出合わせ、少なくなった人流を適切に商業地区に誘導することが、この時代では極めて重要な意味を持つのです。そのために、ARナビゲートなどはどんどん、派手に、安易に、俗っぽくなっていきます。そして若者の間では、そのカウンターとしてのカルチャーが育ちつつあり、LiLy.sもそれを先導する一人です。
 この世界では、人間関係でのストレスは現代に比べると希薄化しています。嫌な人とは会わなくて済む選択肢が増え、可処分時間は自分と気の合う人とだけ過ごすことが容易になっています。
 その根幹にあるのが、民間企業がこぞって精度を高めようとしている「マッチングAI」です。
 この作品はSFなので、マッチングAI万歳ではもちろん終わりません。いろんな問題が生じましたが、一応それでも人口減少を食い止めるという超重要課題の前に見逃されています。
 大きな問題の一つが【過度な同質クラスタ化の進行】です。マッチングAIのユーザー体験における重点は、いかに不愉快な人間と出会わずに済むかに尽きます。当然同じような人間同士が引っ付くようになります。社会的分断はめちゃくちゃ進むのですが、先述の通り、実在空間で自分と別種の人間と逢わなくて済むので、あんまり問題が表面化しません。ネット上でクラスタ同士の不毛な思想戦争をやっている人もいますが、それももう何年も続いているので大半の人は飽きてそれぞれのクラスタに引きこもっています。
 内向きになったクラスタ内では他のクラスタへの反発意識や自分たちのクラスタへの全体主義帰属意識が熟成されます。そしてそれを、マッチングシステムの管理者たちは容認しています。管理者たちも民間企業なので「より精度の高いAIであるとアピールするために、人間側を単純化した方がいい」と気づいているからです。
 当然【対人コミュニケーション能力が低下】します。結構致命的問題な気もしますが、その不和はAIがより最適なクラスタにやんわり分割、再統合を繰り返すことでほとんど表面化しません。
 
 ここで、同質化したクラスタが、所属個人にもたらす絶対性について言及しておきましょう。
 マッチングAIの最適化が常に行われるクラスタ内では、クラスタ内個人の「社会的役割」と「自意識」はほとんど意識されることなく分離することもありません。もとより自と他が同質の集団である上に、自分勝手に快感を追求していても、各役割を果たし集団が整うようにAIが調整する為です。
 クラスタの中にいる限り、個人は全人格的に振舞い、かつ社会的存在として完全になることができます。これが、この時代における理想的なクラスタにおける個人の絶対性の顕現なのです。これを原始社会の「個と社会の未分化状態」になぞらえて「原始の安らぎ」と称します。

 結果この時代の人間は、クラスタに耽溺、あるいはペルソナを使い分けながら渡り歩く、という基本的な社会観を育むことになりました。しかし、いくつかのクラスタを渡り歩けばすぐにわかりますが、同質性が高すぎる組織は往々に腐敗します。しかもどのクラスタに行っても大体同様な状況になっています。(クラスタを腰掛として、深入りしない主義の人達のクラスタもありますが、そこに所属しても自分の帰属意識はさして高まりません。「原始の安らぎ」を得られるクラスタを見つけられるか、あるいはそれを形成できるかが、この時代の人間関係の重要項目となっているのです)
 そんな中で、グレーゾーンな人間関係を受け入れる余地がなくなり、社会思想も退廃します。結果、人間関係の捉え方が、耽溺コミュニケーション【全人格主義】と、刹那的ペルソナコミュニケーション【表現評価主義】に大きく分かれていくのです。
 そんな状況において、商業主義的人格ネットワークはすでに破綻している、不完全なシステムが人間そのものを破壊していると言い出したのが【アレクサンドリア主義者】たちです。
 彼らは思想集団ですが、財団を形成し、大図書館に相当するWEBサイトを中心に生息しています。そのサイトでは全ての人の発言は「一冊の本」として「誰かに読まれる」形式をとっており、基本的に一方通行です。また、発言の投稿から反映まで3日位かかり、リアルタイムコミュニケーションができないようになっています。
 さて、そんな中で【鏡越しの実在】の問題が大きくなります。実在同士で出逢うことを前提に行動する「アウター」はまだましですが、ネット上のコミュニケーションを重視する「インナー」たちにとっては、鏡越しの実在は、いつでも彼らの安寧を破壊する不安要素です。今作の主人公も「インナー」に属すると言えるでしょう。
 ちなみに、この状況が生み出されて20年ほどたっています。
 主人公は20代半ばであり、彼にとってのコミュニケーションはほとんど前述のとおりです。
 一方、エンジニアは40代前半です。彼はまだ社会がこんなになる前に人格の基礎形成を済ませており、ある程度他者への受容の素養があります。また、「原始の安らぎ」を進歩と捉える向きに疑念を抱く余地があります。
 この世代間の意識の差は、極めて大きな分断として社会に横たわっています。

 ここまでが、今作のバックグラウンドです。
 
 さて、その上で、この作品が描いていた状況と、どういう思想性を表現することになったかを説いていきたいと思います。繰り返しになりますが、以下の内容は投稿後に考えたものが多分に含まれます。
 
 身も蓋もないことを言ってしまえば、この作品の結論は「逃避」と言ってしまえるかもしれません。
 主人公の不安は、単に友人の実在に対する不安を越え、自分が属するクラスタへの不信に発展しています。だから、疑いながらも確認しに行かざるを得ませんでした。世界に対して自分が相対であることは、この時代の人達にとっては大きな不安です。理想のクラスタでは、自分が部分要素として安定した絶対性を保てます。
 しかし結果として彼は、自分の居場所の絶対性の崩壊に直面します。
 主人公は【MZの実在に直面】し、自分がクラスタに於いて相対的存在である事を受け入れざるを得ませんでした。そして、その瞬間に【彼もまた天使になる】ことを受け入れたことになります。
 主人公は、自分の自意識が固有のクラスタから外れ、相対的関係性の虚空に放り出されたことに気づきました。そしてそのとき、表現評価主義と架空との交錯点に生まれた火花、つまりは勝手な妄想の産物である【MZの幻影が彼の下に舞い降ります】。
 最終的に主人公は、「他者から表現評価主義的に存在を認められるペルソナ≒バーチャル」こそ、インナーである彼自身の、あるいはMZも含めてすべての存在の在り処だと納得せざるを得なくなったのです。

 この作品における主人公の到達点は、現在の我々から見れば「妄想への逃避」に過ぎません。実際、僕も投稿直後は「こんな終わり方で良いのだろうか」と悩んでいました。しかし色々な反響があり、彼には彼なりの納得する理由があったのではないかと考えていくうちに、彼は作中社会における「現実的成長」を経験したのだと思えてきました。あるいは、クラスタ主義から突如として相対的意識の自由の中に放り出された主人公の、目覚めと旅立ち……
 我々の現在的な理解と、作中の表する意味、二つの落差が、彼の苦悩の潜在的な面白さの正体だったのかもしれません。
 
 さて、ここで一つ、重要なネタバレをしておこうと思います。

 実はエンジニアは「MZの遺志を無視して」勝手に墓のシステムを作り、クラスタのメンバーに墓参りの案内をしたのです。
 
(ここに関しては色々な解釈があった方が面白いと思いましたので、あえてこれが絶対と決めつける意図はないのですが、一応、作る側としてはそのつもりで描いたとお伝えしておきます。でも、皆さんの受け止めたものを一番大事にしてもらいたいです)

 エンジニアの独白
 【僕が死んでも、多分会えないから】
 は
 「僕が死んでも、勝手なことをしてしまったから、合わせる顔がないので会えない」
 と言うつもりで描いたセリフです。
 MZは自らの死を悟って【天使になることを選択しました】。つまりMZはMZとして、クラスタに存在し続けることを選択したのです。そして、その試みは成功しました。
 しかし一方で、【エンジニアにリングを渡しています】。無論、このリングというのは結婚指輪を意識したアイテムで、貸与できる権限も極めて大きく、なまじの相手に渡すものではありません。
 MZはあくまで個人的にエンジニアに自分の実在を晒したつもりでした。もちろん、自分の死後の対応を任せる部分はあったでしょうが、それはむしろ天使の自分をサポートしてくれることを期待したのではないでしょうか。
 しかし【エンジニアは墓のシステムを作り】MZのアカウントを通じて、友人たちに案内を送ります。それはMZにとって、ネット上の自分を完全に殺される行為でもあり、またネット上と実在とで分かれていた所属クラスタを許可なく融合させる行為でもあります。
 エンジニアはクラスタの重要性を、主人公やMZほどには理解していません。彼には実在という絶対的価値観が存在しており、だからこそ、お墓というきわめて実在的な存在に縋りつくことになりました。とはいえ、勝手なことをしている自覚もあり、それがエンジニアの迷いに現れています。
 エンジニアは【多くの人に知ってもらうことで、自分の愛したMZの実在を確かなものにしようとしました】。感情的には否定しづらい部分が無きにしも非ずですが、倫理的問題は残ります。ちなみにMZの家族は同意しています。
 ボイスチェンジャーも発展しきってるので、【主人公はエンジニアの正体は最後まで分からずじまい】でした。

 正直な話、当初エンジニアは僕にとって、単なる物語上の役割キャラでしかありませんでした。しかし出来上がって見ると、案外しっかりと主人公と対比になっていました。
 実在に拘り墓の前に留まるエンジニアと、妄想と知りながら進もうとする主人公。
 あるいは、弔う事で愛する人を永遠に死者にするエンジニアと、空想によってその存在を胸の内に掬う主人公。 
 その対比が、この作品の面白さに繋がっているのかも知れないと感じました。
 故人はどこに在るのか。あるいはもはや他者はどこに在るのか。社会が変わってしまえば、他者の在り処も変わってしまうのではないか……それがもしかしたら、この作品の一番SF的な問いなのかもしれません。
 

 

 最後まで読んだ変な人に
 
 
 おまけ豆知識
 
・仮想美少女シンギュラリティを読んだ感想を、小説形式にしようとアイデアを出していた、それがこの作品の一番最初です。
 「リング」とネットの向こうの死、というモチーフは最初期から持ち越されています。一番最初期のネタでは、知り合いの死を通じて、仮想化された人格が神格化した「バーチャル美少女のはじまり」を訪ねる、というちょっとしたバーチャルワールド冒険ものだったのですが、直後にレディ・プレーヤー・ワンが公開されちゃったので、ハードルが爆上がりして挫けたんですよね……

 

・そもそも僕はV存在でもないし、VR機器も持ってないしで、こんな話書いちゃっていいのかなあ……って気持ちはいまだあります。

 

・漫画はSAIで描きました。正直漫画には向かないかもなあと思いながら、パース定規に助けられながら頑張りました。クリスタって良いのかな? 枠線引いたり吹き出しが楽だったりするらしいですね。とにかく漫画は難しいと実感しました……

 

・そもそも、あまり大きな、或いは誰も思いつかないような設定は思いつかないので、すでに予言されているテクノロジーをつるべ打ちにして、それを統一した世界として見せ、かつドラマで筋を通せばいいだろうと考えて描き始めました。

 XR創作大賞のようなアイデア勝負のような賞にはどうかと思いましたが、まあ、そこは織り込み済みで。できないことはできないしね。

 

・MorICarの車輪は球で、超信地旋回や真横に移動することができます。なので、扉は片側だけが開く仕様です。シートベルトの構造が納得いってないんですよね。

 

・コンビニは実は無人店舗。

 

ルバーブは一応覇権とってるトータルアプリという位置づけで考えています。

 

 

 

 

 こんなもんかなあ……

  ★みんなありがとー!

 

 

 


 
 
 

自分が内向的寅さんだった話

 
 昔から何を考えているのかよく判らないと言われてきたが、赤の他人が何を考えているのか、判ったら不気味だろうとずっと思ってきた。たぶん他者に対する類型的理解にあてはまらなかったのだろうと考えてきたのだが、微妙な違和感がずっとあったのである。
 今朝見た夢は、努力をして何かを成し遂げる夢だったように思う。自分は気持ちよく努力をする側で、そうできない誰かをもどかしく見ていたような気がする。
 そうして目覚めて初めて、つまり努力できる人の視点に立って初めて

 「貴方のふるまいは、努力している人たちに失礼だ」

 と言う言葉の意味が芯から理解できた。(そのセリフを直接言われた事はないが、そう言いたげな遠慮がちな物言いには幾度も接してきた)
 別にやる気を出してないとか、茶化しているとかではないのだ。話を真面目に聞き、言われた通りにやり、自分なりに改善点を見つけて修正する。だが、それがどうも周囲に比べて進度も成長度も遅い。何でだろうと思っていた。
 
 できているらしい人は、あまりにも当たり前の事過ぎて、このギャップが理解できないらしい。
 こっちも、できているらしい人が、どうして不愉快そうなのか、まったく判らない。
 
 おそらく「何を考えているのか良く判らない」は、
 「なぜ(何を考えて)あなたがここに居るのか(そして我々と同じ活動をするのか)良く判らない」
 という事だったのではないだろうか。物事への向き合い方が違いすぎるが故の違和感だ。
 そういう人たちとの一番のギャップは、「自らの意思でそこに居るという事の重さの差」だったのだろうと思う。(漫画でよく見る奴だ!! 今まで全く気づいてなかった!)
 
 自分はあまり人生にクヨクヨしていない。楽観的で、自己存在にもある種の肯定感がある。
 一方で自己充足が過ぎる面があり、無目的だし、憧れもなく、希望も特にない。
 こういう人間と、強い憧れや執着に従う人間とが対面すると、軋轢を生みやすいのだろう。
 特に後者の人間が、その欲求を満たす方法として努力を用いた場合、欲求は正当性を帯び、生産の面でも倫理の面でも、絶対性が強まる。後者の人間はその絶対性を積み上げ、今この場所に居ると考えている。選択はその為の重要なファクターであると考えるはずだ。
 そして実際、彼らは(前者の人間とは)次元の違う努力を成し得る。努力は目的を達成する効率的手段であり、覚悟もまたその一段階である、と考える。
 彼らの強い欲求を、社会の認める絶対性で固める。それは鉄壁の塔である。心柱は高く天まで無限に伸びている。
 一方こちらはそうではない。成り行きである。なんとなくである。そうなっちゃったのである。心柱などなく、ただ決めた通り漆喰を積み上げていくだけなのだ。出来上がりにはけだし雲泥の差がある。
 
 生産結果に差が出るのだから、使役する側はそういう人間の差異をよく見極めるらしい。目的意識を持っているか。夢があるか。つまり欲があって、それに向けて努力をしているかである。それが極端な所まで行けば「やる気が感じられるか」という頭の悪い基準になっていくが、無目的な「やる気」が無能の証であるのもまた一面の事実であるし(過去に自分もやらかしたことがある)、使役側の想定する成長に結び付かない別ベクトルのエネルギーは、相応のコントロールを要する(だからそれを理解した指導者と、エネルギーのある人員の出会いは、幸福なものである)。

 閑話。
 この話を知り合いにしたら、「お前はF1サーキットで車に乗って、ハンドルを握ってるのに一向に発進する素振りがない」ように見えていた、という事だった。なるほど。サーキットにはレースと言うルールがある。観客と言うプレッシャーもあるし、競争心やプライドもある。普通なら慌ててアクセルを踏み、訳も判らず走り続けるうちにドラマもあるものだろう。それがどうも自分にはまるでない物らしい。F1が大仰なら、公道でもゴーカートでも同じことだ(操舵の難易度やスピード、観客の夥多はあるが)。
 実際には、レースをしなければならないというルールは、みなが共同にもつ幻想のようなものだ。だからコース上で立ち止まっている奴が居たって問題はないし、それを他のレーサーが叱りつけるのは妙な事だし、先頭が後続を見下すのも、無理からぬとは言えあくまで知ったこっちゃない価値観だ。
 だが、一つだけゆるがないのは「走らないと絶対にゴールには辿り着かない」という事だ。どんなことをしていたって良いし、どれだけ先頭と差が開こうが関係ないが、それだけは事実だ。
 ただ、一つ重要なことが抜けている。
 「ゴール」がない場合がある。勿論、もともとすべての人間にゴールなどない。ゴールは自ら設定し、折々に達成され、或いは失敗し、新たに設定していくものだ。だから、いまゴールを持っている人は、自らゴールを決定する能力を培った人間であるという事だ。(ついでに言えば、そのゴールと社会との親和性がある程度ある)
 改めて考えると、自分は「ゴール」を設定するのが致命的に下手なのだ。(無茶な目標を立てるというのではない。むしろ計画は好きな方だ)
 「ゴール」とは到達点だ。努力、偶然その他成り行きを踏まえて、自らがその結果に納得し、充足を感じ、他者に認められ(ると信じ)、ある程度の妥当性の上に結実するだろうと想定できるものだ。
 つまり一言で言えば「夢」
 
 云々。
 
 と、ここまで考えて、自分を社会から遠く置きすぎたために、達成による外的快感の経験が委縮し、具体性を伴った(快感の)想定ができない(が故に、その快感に向けての努力もできない)のだというあまりにも辛すぎる結論に至ったのでこの話はここで終わりにしておきます。
 ただ環境の影響で、(快感を伴うはずの)選択肢が想定できなくなり(故に選択できなくなる)、更にドツボにはまって自発的なエネルギーを衰退させていく例は、過去にいくつか見ています。夢を見れなくなる。夢の形式だけを追う。こわいこわい(他人事ではない)
 
 余談。
 今まで社会生活を拒否してきたわけではないです。普通に暮らしてきたけれども、他者から自己を守ることの方が重要だったらしい。限界中年になりつつあるが、そのおかげで、社会で活躍する年下の人が増え、ようやく自分を棚に上げて、努力だとか、コミュニケーションだとかを見渡せるようになったのだと思う。若い人、みんなすごいよ。俺も今更だけどがんばるよ。
 
 
 
 でも、ある一定の人口が在るのではないだろうか。
 人間はペルソナを使い分ける。と言う。だが、社会的欲求を持たない人間は、仮面の使い分けに価値を見出さない。何も得ようとしないなら、仮面など必要ない。そんな人間は、いかにも幼稚で、怠惰に見え、実際に社会的地位は極めて低いだろう。

 あるいは欲求があってもゴールがうまく見だせないから、いつまでも手あたり次第に走り回るだけで、結果を見ると何も成していない。

 ここまで考えて、そういった人間を描いたのが寅さんだったのかも知れないと思い至った。
 肩ひじ(つまり社会的に高度な欲求)を貼らずに、人柄だけで世を渡っていく人間の悲喜こもごも。寅さんに大望なんて望むほうが野暮に感じるくらいだ。
 寅さんは外交的だし内的衝動があるから何とかなる(令和の世に通じるかは怪しい所があるが)けれど、内向的だったらどうだったろうか。 
 内向的寅さんに、はたして社会は価値を見出し得るだろうか。彼らは自己充足のみで満足すべきなのか、或いはそうかもしれない。
 これは、喪われた数十年に萎え切った一人の人間の卑屈な観点に過ぎないが、彼らは本当に、歴史に埋没すべき存在であるのか? そうであると断言するのをためらう程度に、僕と同じような人間が世の中にいる気がしている。

 

 僕が、がんばるよ、と、今自らに空疎でなく言えるのは、今回の思索を通じて自らの状態を認識できたが故である。
 

 

 夢とは?
 
 抱いて前に進むものではない。少なくとも僕にとっては。
 
 その先に、本当に自分の望むものが在るのかどうか、行ってからさぐるものだった。


 

物語鉱山「Remains of Tellers」ゲームブックイントロ風解説

 これは百合文芸小説コンテスト2の投稿作が2000作を越え、埋もれる物語が沢山あって勿体ないと、VRインターフェイスを絡めてキュレーションする方法はないかと考察したもので、せっかくなのでゲームブック風にまとめてみました。時限イベントだとより密度が高まって楽しいかな、と思う。

 書き手(創作者)

 視聴者(消費者)=発掘者=販売者

 表現者

 の三すくみ構造になっている所が肝で、それを仮想的な経済システムで循環させることを軸とする。

 

:君はカントリーサイド風の村の入り口に立っている。
 

:左右は馬車置き場、正面には広場があって屋台が立ち並び、一番奥に尖った岩肌の山がそびえている。これが、この村を象徴するRoT鉱山である。

:RoT鉱山は、無数の創作者が書き捨てた物語の累積が化石化してできた山だ。

:RoTの村は、その物語を掘って暮らす者たち、そして、掘り出された物語を演じ、輝かせる者たちの根拠地なのだ。そうちょうど、ダイヤモンド鉱山の麓に、宝石技師たちの村があるようなものだと思えばよい。この村に直接物語を買い付ければ、自分の好みの物語と出会い、安価に手に入れることができるだろう。

:君は手元にいくらかのお金を持っている。それはこの村だけで使える通貨だ。

:君はその通貨で、朗読をきいたり、お芝居を観たり、或いは演者として物語を買い付けたり。物語の執筆者や表現者に直接寄付したりすることができる。

:君は村に足を踏み入れた。

:左端には大きな休憩用テントがある。その中では演技や朗読は禁止され、ただゆったりと異国風の敷布に体を横たえながら時間を過ごすことができる。

:休憩用の大テントの右隣には、個人用の演技屋台がある。2~3畳の広さのシンプルな屋台がずらりと並ぶ仲見世通りで、君は個人表現者たちにお金を払い、彼らのパフォーマンスを堪能できるだろう。屋台に入らず、あちこちの屋台から漏れ聞こえる表現者たちの声を聴いて、にぎやかさに浸るのも良いだろう。

:正面には、大きな鐘楼がある。この鐘は、時間が不連続なこの村にはなくてはならないものだ。

:鐘が鳴ってしばらくすると、屋台の表現者たちはいったん全員退出せねばならない。そうしてまた鐘が鳴るとき、早い者勝ちで自らの屋台を確保しに行かねばならないのだ。特に、個人用屋台は無料で借りることができる。君が駆け出しの表現者なら、まずはとっておきの物語を携えて、ここを狙ってファンを集める所から始めるといいだろう。その際自動ポップアップ看板に、作者と演者の名前、作品名、そして各々の、他のアカウントなどプロフィール情報をきっちり書き込むべきだ。

:鐘楼の下は噴水になっており、荒涼としたこの周辺の岩場に一服の涼しさを与えている。

:君は、噴水の周辺のさほど広くない石畳、或いは展望台のベンチ周辺、そして屋根の下でのみ自らの声が音になるのに気づくだろう。それ以外の場所では君の声は言葉として表示される。誰も彼もが、そこかしこで表現を始めてしまわないようになっているのだ。

:右手奥には、大きな夕日と荒涼とした山並みを見渡せる展望台がある。
:右手前には、30人程度を収容できる中規模テントがある。個人用屋台よりも、より自信に満ちたショーが繰り広げられるはずだ。
:鐘楼を越えて正面の山肌突き当りには、1000人規模の大ステージがある。表現者の者たちは、中規模テント、そしてこの大ホールで演じることを目指すと良いだろう。借りるためには相応にお金がかかるので、頑張って稼ぐことだ。十分なお金があれば、十分なファンがいると考えていいだろう。

:さて、あくまでも視聴者である君は、ふらりと立ち寄った個人屋台で朗読を堪能した。しかしお金が底をついてしまった。それに、君は喋るのがあまり得意な方ではない。そんな時は、集落の一番左奥へ行くと良いだろう。そこではRoT鉱山の坑道の入り口が君を待っている。

:RoT鉱山に入って、物語を発掘するのだ。RoT鉱山の中は時空が歪んでいて、古代の書き手たちが今まさに物語を次々と執筆している所だ。

:君は無数の物語から、掘り出し物を発見するのだ。そして、お気に入りの物語を表現者たちに売ってみよう。気に入ってもらえれば、君の選んだ物語を彼らは買い、翌日にでも演じられるだろう。

:上手く行かない場合も、諦めず交渉してみよう。この作品のどこが良いのかを熱く語れば、きっと通じるだろう。執筆者保証を付ける事も忘れてはならない。

:もちろん、君自身の審美眼も試される。いい物語を発掘できるよう、腕を磨こう。

:ちなみに、古代の書き手として参加をしたいと思った君は、迷わず筆を執ってみよう。

:もし自分の作品を、表現者が舞台にかけた場合、時空を超えて君の懐には大金が転がり込むだろう。選ばれる良き物語を書けるよう切磋琢磨すれば、富豪も夢ではない。勿論、時空を往復しながら、自ら書いた物語を発掘し、売りに行くことも可能だ。

:だがもし、それらの方法がいずれも上手く行かない場合。君は途方に暮れるしかないのだろうか。
:噴水の縁石に座り込んでうなだれている君の耳に、ふと誰かの声が聞こえてくる。それは、流しの表現者だ。発音許可エリアに現れる彼らは、今日は屋台を抑え得なかったもの、或いは腕試し、或いは異様な楽天家などだろう。完成度は低いかもしれないが、君はそれらの調べを聞きながら過ごすことができるだろう。気に入ったら君は彼らや、物語の作者に寄付することもできる。

:もう一つ奥の手がある。それは、大ステージの脇の階段から山の斜面に展開された、物語の買い付け場と、練習場が一体になった第二広場へ行くことだ(君が良い物語を発掘した時も、ここを利用すると効率よく物語を吟味してもらえる)

:そこでは、表現者たちがまだ未完成の舞台を練習中かも知れない。無論、練習は無料で見る事ができるので、君はぼんやりとその賑やかさの中で、拙いが明日の大ステージにのるかも知れない作品を一早く知る事ができるかもしれない。

:日が暮れたら、君は展望台でゆったりと過ごすか、或いは休憩用テントで深い眠りにつくと良いだろう。

:さあ、古代の書き手たちの遺産、RoT鉱山で君の宝物を発見し、それを腕のいい表現者たちに輝かせてもらおう。
 
 


 ちなみに、今回百合文芸小説コンテストには2作投稿していますので、よろしくお願いします。

 

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天気の子の感想と、セカイ系とかゲーム版とか、あと大人と新しい人たちについて

 以下の記事にはネタバレがありますので、見てから読んでください。ほんと。お願い。

 

 

 天気の子を見てきました。

 単純な感想で言えば、

「超乳絵師だと思ってフォローした人が、何年か前にTVアニメのキャラデザやって「へえ~こんな絵も描けるんだ、やっぱうまいなあ!」なんて感心してたらLOで傑作描いてきた」

 みたいな感じです。判ってくれる人だけ判ってくれれば良いです。

 

 

 さて、僕がこの作品のついて感想を書く前に、言及しておかなければならない二つのワードがあります。

 それは、「セカイ系」と、「ケツイのコンテンツ化」です。

 要するに僕は、今まで考えてきた二つの論に基づいて、この作品を見ていたのです。もっと頭空っぽにして見たかった。勿論以下の感想もその軸に囚われていますので、もっと自由に見ろよ、という指摘もあるかと思いますが、まあこれも一つの見方という事で。

magenic-cafe.hatenablog.com

magenic-cafe.hatenablog.com

 

 以上の二つの記事は、読んでもいいし、読まなくても良いです。(読んでくれるととっても嬉しいです。長いですが)

 ごくごく簡単に説明すると、セカイ系とは、オタクが自らの迫害を聖典化してカタルシスを得た古のジャンル。

 ケツイのコンテンツ化とは、ゲームにおいて、プレイヤーの主体性を単なる選択肢と言う行為に落とし込む際、その選択する行為の意義を極大化する為に、主にノベルゲー(特にエロゲ)で発明された方法論。

 

 と言ったところです。

 もうすでにタイトルにもあるとおり、ケツイのコンテンツ化、という考えには、深くエロゲが関わっており、それを以てこの映画を語る以上、エロゲ版天気の子について語るところから始めた方が良いでしょう。

 

・エロゲ版天気の子

 まあ、詳しい事は、そういう印象を得たという人たちが色々書いてくれるので、そっちを読んでもらいましょう。ぼくも、視聴前にそう言った論調を少し見てしまい、影響を受けています。

 

cr.hatenablog.com

 

 まあ本当に、ちゃんと一つ一つ、悩み、逡巡するシーンが描かれているんです。そのわずかな間に、エロゲオタである僕らは選択肢を幻視してしまうわけです。あと話の展開ね。主人公の価値観と通ずるヒロインと突然出会って、そこから仲良くなっていくんだけど、肝心の所でヒロインは消滅の危機にさらされて、それをどうするか、一番大きな選択を主人公は迫られる……

 何で鳥居に飛び込めば解決しちゃうんだなんて野暮なことです。彼はもうそこまで決断したので、それには報いが来るのです。

 公式が「選択」の物語だと言ってたことを、僕は視聴後知りました。キャラの名前が思い出せなくて公式HPを見たのです。

 

・選択の極大化

 選択をする、という事で問題が解決してしまう。そんなことはご都合主義です。むろん、その批判は正しい。けれど、この作品(そして様々なゲームにおいて)は、選択の極大化を行う事によって、その批判を回避しています。

 

1.選択に対して責任が生じる

 +の事だけでなくとっても困ったことが起きます。そして、それは主人公にとっても悩ましい事としてとらえられます。これによって、そんなに都合のいいことが起きたわけではない、と言う印象になります。また、それだけのことを選び取ったという、意志の強さの証明にもなります。それだけ意志が強ければまあ、通ずることもあるかなあ、と、優しい人は思います。

2.主人公の希薄化・選ばざるを得ない選択肢の提示

 のちの、「違和感」でも触れるのですが、主人公とっても素直で、優しくて、一生懸命で、真面目ないい子です。誰も嫌いになりません。そして、起こる出来事がとってもスリリングで、選択の余地があんまり有りません。それを素直に選び取っていきます。そうだよね、って思います。一体次は何が起こるんだ~ みたいなのがあんまりありません。ストレスフリー。まるでジブリアニメ(主観)の主人公みたいです。

 その結果、いつの間にか、主人公と視聴者が、同じように選択を追体験しています。なぜなら、視聴者は違和感を感じないことによって、主人公の行為に無意識に承認を与えているからです。

 ですから、いざその荒唐無稽な瞬間があっても、彼の選択を支持しやすくなっているのです。そうするしかないよね~ 私もそう思うもん。と言う風に、本当にうまく持って行っています。

3.ラストに、主人公の選択及び、選択する行為を肯定させる

 まあ、エンタメとしてはそうあるべきなんでしょう。一緒に選択してた視聴者もにっこりです。エゴだけど、それでいいんだと開き直らんばかりの終わり方です。

 ですが、この作品において、選択することを肯定しなければ、作品の根幹が崩れてしまうので、選んだあなたはエライ! としておき、あー良かった、あの時頑張って。と、振り返って自らの行為を肯定することで、その選択そのものも、まあ、結果オーライだよね。となりやすい訳です。

 

 ちなみに、上記の選択の極大化は、かのUndertaleなどでも使われている技法であり、またそれは繰り言ですが、日本のエロゲ系文化にも顕著にみられる技法です。

 

・違和感

 いままでの新海ファンになんとなーくピンとこない部分。 

 

・ヒロインが年下

 何と年下(同世代)キャラのツボ、「相手が自分と同程度、あるいはそれよりも未熟な面を見せ続けてくれるので、何か安心する」

 

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 を使ってくると思いませんでした。ラストシーン。あれは救われちゃう。

「大人にならなきゃいけないのかな? でも一番大切な人はまだあの純粋さ、未熟さのままでいてくれた! そして彼女は俺とおんなじ気持ちでいてくれるし、俺の感覚間違ってないんだ!」

 すごい肯定感。もうあの時とは違うのよ、とか絶対言わない。

 しかも、キミとかって偉そうな生活力ある中学生とか、もう何なんだ最高か。

 

セカイ系のようでセカイ系じゃない

 世界や社会を否定してないからね。いや、否定的に描いてはいる。確かに描写される、「大人のセカイ」との対立は極めて明確だ。けれど、その世界と決定的に決裂はしない。明確な抵抗の意思を示し、その上で、水没しても人の生活が描かれてつづけていて、世界がわの強靭さが示されている。

(もっと判りやすく言うと、対立する大人のセカイは絶対的なものとしての世界と一致しないのである。ここが決定的にセカイ系とは異なる。大人のセカイは大人のセカイ、主人公たちのセカイは主人公たちのセカイ、そして実世界は自然の司る世界として超然とあり続ける。

 いわゆるセカイ系は、これらが混同されてメチャクチャに入り乱れて闘争する中に、ヒロインという絶対神を据えて戦い抜く聖戦士の姿を描いたものと言える。

 そして、もしかしたら若い世代には冗談に思われるかもしれないが、ほんの四半世紀年前まで、個人や社会や自然と言った価値観は今以上に混同され、訳の分からないセカイとして、アイマイなまま絶対視されていたのだ……)

 ヒロインも、君の価値観は正しいよって肯定してくれるところはまさに、セカイ系ヒロインだけど、それが世界と決定的に断絶はしていない。まあ、悲しんではいるだろうけれど。

 内的な価値観が、世界に泡のようにバラバラに存在できるんだ、と言う、多様性の姿を描いたようにも見える。そして、それが個人と社会とが激しく相克していた平成初期なんかと、隔世の感を与えるのだ。

 

・絵が何か平たい

 セカイ系の特徴であった、主観によって描かれる世界、じゃないよね、今回。悪く言えば、それぞれの画(特にレイアウト)が客観的で面白みがないし、演出も、ここぞ知れ俺の衝動、と言うよりは、そうなるからそうなるって言う感じの、当り前な感じ。感情の高ぶり? じゃあ雷だね、発砲だね、といった、とてもドライな感覚。

 新海監督が叙情作家であると言われて、絵からにじみ出るんだよねー、と言った感じがあんまりない。相変わらずキレイではあるけど。

 これは先述の、主人公を希薄化するための方法論なのではないかと、勝手に思っています。絵に余計な主観が載ってないから、視聴者が主人公の選択する姿をストレートに享けることができる。主人公は割と何にも語られないし、何か抱えてるんだか全くわかんないし、でも、それがとにかく、他人として一生懸命動いてる姿を見せる、それを客として応援するという構図が、おそらく必要だったのだろう。

・2011年と三年前と新しい世代

 さて、君の名は大ヒットして、その次どうしようかな、と考えたはずなのです。その時に、選択を中心に据えようとしたのは一体誰なのでしょうか、僕は知りません。

 けれども、この判断は極めて時勢を捉えていると、思ったのです。

 最近いい歳になってきて思います。昨今リバイバルだの、僕ら向けの作品が闊歩しているけれど、それより上の世代の作品は、あまり見られない。それと同じようなことが、きっと、5年後10年後に起こるだろう。

 その時僕らは完全に、市場としてもロートル化する。おそらく僕らが見るコンテンツ市場は、驚くほど姿を変えるでしょう。その断絶感に乗り遅れたくないと、いつも思っています。絶対に、ぼくら向けでない時代が来る。

 市場には、どこかで見たような作品が、しかし若い世代にとっての新しいものとしてあふれ、それにうんざりしながら、新しいおもちゃも与えられず、結局過去の自分に回帰していく。(その時僕らは、幼児性を抱えたオタクから脱し、大人のようにふるまうようになるのかも知れません。ぼくらは若い人たちの感性やコンテンツを陳腐、下らない、青いと言って否定し、「大人のセカイ」に引きこもるようになる(ように若い人たちからは見える))

 消えてしまわないコンテンツ、あるいはその製作者となるために、やはり常に若年層に働きかけて行かねばならない。

 「天気の子」には、そんな明確な意図が働いている気がするのです。

 だから、この作品に大上段から構えても、肩透かしを食らう気がしているのです。新海監督が常々、少年少女向けジュブナイルをやりたいんだと言っていた、その面が強く押し出されていると考えられるのです。

 もしこれが、超美麗なだけの「コドモ向けアニメ」だったとしたら、それはそれで大変贅沢なことです。もちろんそうでないだけの骨組みがこの作品にはあり、それは明確に意図されて組み込まれています。

 とはいえ、今回の論旨はあくまで2つに絞ったので、あくまでその視点は崩さずに行きましょう。

 前掲のセカイ系についての考察に基づいて、なぜセカイ系が衰退したのかを考えると、

・社会の価値観の多様化

・オタクが迫害される存在でなくなった

・鬱屈とした自らの正当化より、より具体的な問題の解決が好まれるようになった

 などの要素を見出すことができます。

 シンゴジラが称賛されたとき、しきりに「ちゃんとみんながやるべきことをやって、何かを解決しようと対応しているのが素晴らしい」と言われていました(意訳)。

 けど、シンゴジラは多分ウソです。もっと邪魔で、無能で、下らない人間が、政府にだって沢山いるだろうし、でも、それは創作上の理想として排されるべきだ、となったわけです。

 その傾向はおそらく、徹底した個人主義からきているのでしょう。自己責任論や生産性云々からこちら、国が右肩下がりな状況で、いつまでもメソメソしているやつは邪魔だと、感じられるようになっている。

 人間の理想的な姿は、解決を模索し、文句も言わず運動し続け、物事を導く主体性を持つもの、となってきた訳で、当然「天気の子」は、そういった態度を称揚する映画です。その結果として、東京が水没しようが構いません。

 いいんです。彼は選択したのです。そして、彼なりに一生懸命誠実にやった結果があれだったのだから、それは肯定してあげるべきだと言うわけです。

 

 君の名は、は、2011を受けて盛り上がった「絆」の称揚の物語でありました。敷衍して考えれば、それ以上の何かを見出すに至らなかった。あるいは、それでも十分な到達点と認識されていた、と考えられます。

 絆があれば、死んだ人間が生き返ったっていい訳です。

 新海監督のインタビューで、監督がその批判、つまり「災害をなかったことにした」という批判を、わざわざ心においた上で天気の子を作ったという言葉を考えると、「絆」の次を考えなければならなかった、その際に、2016以降様々な課題が顕在化し、絆と言う言葉が空疎化する中で、今、そしてこれからの理想の姿として「選択し続ける」人間を描いた、という事は、きわめて自然に思えます。そして、その際に選択によって世界の方が損害を受ける、けれどもそれを肯定する、と言う姿勢には、間違うし、うまくいかなくても、僕らは選択し続けなきゃいけないんだ、と言うテーマが見え隠れします。

 

 そして、

 

・自らの選択への確信

・選択によって起こった出来事を受け容れるだけの覚悟

・選択を肯定してくれる人

・選択を責め立てない世界

 

 それらがラストシーンには全てそろう。

 だから、僕らは

「選択しても大丈夫だ」

「前に進んで大丈夫だ」

「やれることを一生懸命、わかんなくたって大丈夫だ」 

 あれが僕ら(或いは、大人でない新しい世代)へのメッセージでなくて何でしょう。世界はそうあり、そうであるべきだ。ぼくらはそうした世界で、理解者を得て、エゴの責任を背負いながらも胸を張って前に進むべきだ。

 それが、2011から絆を乗り越えた、徹底した個人主義の帰結としての2019の世界であるべきだ。

 そんな明確な一点を見出すことができる気がするのです。

 

 まとめると、「天気の子」はセカイ系のフォーマットを援用しながら、次世代の個人主義の在り方を肯定すると言う、いっそセカイ系とはまるで逆のことを描いた、やや応援映画的な(つまり、観客すらも相対化した)様相を帯びた娯楽映画だったのであろう。

 

 

 以上、取り急ぎだけれども、言いたいことが沢山あってまとまりのない長文感想でした。最後まで読んでくれてありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

セカイ系についての考察の時系列

 過去に僕が思考の対象としてきた、セカイ系における考察の系譜です。

 なお、ここで言うセカイ系やオタクなどの単語、および、それに基づく論はあくまで僕の雑多な感覚を表しただけのものです。他の方との定義が異なる面も多々あると思います。ご容赦ください。

 

 

 さかのぼれるだけのツイートから見つけた、最古のセカイ系への言及です。人生を十分に過ごしてきた人間同士の恋愛、あるいは過ぎ去った時間への執着などをまず思い浮かべましょう。

 つまり、出会ったときや、過ごした短い時間に出来事を凝縮し、人生における悲喜こもごもを一気に経験させる。あるいは、その二人がずっと暮らして行くという、予感上の未来を展開し、それをすでに体験したかのように錯覚させる。

 きっとこうであったに違いない、だから俺はこうするのだ、と決意する態度は、単に未来を想像するだけで起こるのではなく、その予感上の未来を、部分的にでもたしかに経験したからこそ、起こるものと言えます。勿論そのシーケンスに結構な時間を割いている作品もある。

 もちろんそれを後々裏切っていきます。ここから、少しセカイ系のものとは異なる話になってしまうのですが、まあ、話の運びもあるので、列挙。

 ここでは、ゲームにおける選択を、善人度の測量としています。何故、善き人である必要があるのか、そこは後半で触れます。お楽しみに。

 また話がセカイ系に戻っています、ちょっと混乱しているようです。ただ、善人同士の信頼が永遠に継続する絶対的価値であると、言いたかったようです。そして、ここにおいて神話世界への逃避と表現していることが、実は後々大きなウェイトを占めてきます。

 ここは余談。倫理的神話の絶対性、の、絶対性についての論証はやりかねます。でも、我々はそう信じがちじゃないですか。

 ここで、

 ただ一人の倫理に呼応する思想と、それに従った善き人生の予感を肯定する

 と表現しているわけですが、つまり、そういった関係性が永遠に続くと保証する(倫理的神話の絶対性)ことで、彼女との予感上の未来は、現在の経験の延長として保証され、然るにプレイヤーにとっての実感になる。

 そして、予感上の人生を共にした相手に対する誓いを、我々や主人公は成し得るわけです。

 

 この時点では、セカイ系に限らず、ヒロインを絶対化する傾向と、その手順の概要についての推論を行っていました。そして、その極致として、ヒロインの存在に世界の方が下位につく、という象徴的な作品として、セカイ系を取り上げたようです。

 

 まあ、これは単に僕がそういうの好きだったなーって言うぼやき。けれど、どうやらこの辺りから僕は、セカイ系と言うものは何だったのか、という考えにとり憑かれ始めたようです。

 

 折に触れて顔を出す、セカイ系というワード。論としてはちょっとボンヤリしていますが、この、絵や雰囲気で語っている、と言うポイントは、実は「天気の子」を語る際に極めて重要になってきます。

 

 この時にはもう議題を意識し始めています。

 ちょっと拡大解釈しすぎですね。このころは定義も曖昧で、それっぽいという事で呟いていたようです。ただ先述の、主観と、世界そのものと、その表現手法が高度に一致するという点に、注目したかったようです。

 

 ずっと気にしています。

 

 主人公が外交的でない前提になってますが、これはヒロインの絶対性があるためです(ヒロイン以上の存在はない)。その上で「外の世界の可能性への憧れ」か、「内的に問題を抱えた人間を援ける」優越感か、関係性の取り結びにおいて、そういうものがよく使われるような気がする、と。厳密に言うと、セカイ系の特徴でもないし、並立させる要素でもない気もします。

 試論。外に開き、たくさんの可能性を手に入れて、その中で伸び伸び生きて行く、という健康的な理想と、絶対的ヒロインとの相克の結果、世界の方が抽象化する場合もある、という事です。

 諸星あたるですら、映画ではセカイ系の呪縛に囚われたのだ……(時系列的にはむしろこっちが先か)

 

 信仰って強いよね、と言う話。一見何の関係もないようですが、実は最後の方でなんとなーく関わっているような気がしたので、入れました。

 

 何かが判ったようです。セカイ系の特徴を、

 痛切な孤独と淋しさを、傷をえぐりながら掴みだす

 と、表現しています。定義的にはある程度共感してもらえるかなと思うんですが、これは以前から持っていた感覚です。論旨はKEYの話なのですが、このタイミングではもうセカイ系についてある程度の見通しを建てられていたように思います。そして、その特徴をカバーする形で鍵作品はヒットしてたんじゃないか、と言う話です。

 

”オタクの中に共通していたであろう、疎外感と孤独感を背景として、それを比喩でも何でも捉えて表現まで昇華したセカイ系と言う作品群”

 これが、一つの解です。

そしていま、改めてこれらの定義の類を総合して、僕がセカイ系とは何だったのかを定義することには、

 

「90年代後半、終末思想はびこる中、迫害を感じていたオタク(や表現者)たちが、自らの愛する二次元表現に救いを見出し、それを絶対化・神聖化して、抑圧してくる世界と主観的な表現で対立させ、現実社会への迎合を否定、正当化する意識の下に生み出された作品群」

 とでも言うべきでしょうか。

 

 迫害や抑圧の感覚は、ヤンキーものや、尾崎豊の世界観などの殺伐感のように、それ以前までも表現の主体でありえました。彼らはある種の荒んだ感覚でその疎外感を訴えたり、暴力的行為に出ることでそれを打破しようと足掻いたものであろうと思います。外向的な抵抗です。

 一方でセカイ系は、理解されない俺たち、を神聖化し、正当化する。絶対神であり、主人公の価値観の保証者でもあるヒロインと共に、それを否定する既存社会を内向的に拒絶する。けれど、社会を拒絶することが非現実的であることはみんな判っていて、その中で都合良くノーテンキでいる事もまた、信じがたかった。

 だから、ヒロインを中心とする信仰が勝利すれば、世界(既存社会)は崩壊したり、主人公が破滅したりする。一方で、既存社会を維持する方向ではヒロインの存在や、大切なものが毀損される。開き直りもできず、まるで隠れキリシタンのような屈折を遂げ、血のにじむ受難の歴史、その殉教者として神に尽くし、足掻き苦しみ、懊悩する自らの姿を肯定する作品群に、聖的な救いを見た。

 これが、セカイ系であったのだろう、と今は思っています。

 

 この結論に達したのは、つい最近でした。そして、この視点を持って、ぼくは「天気の子」を見に行ったのでした。

 

 そして、セカイ系の先にはいったい何があるのか。これは、天気の子の感想にもつながる重要な視点です。

 

 

 とりあえず、天気の子の感想を書くために必要とした、僕の持っている前提を、ちょっと乱暴ですが列挙しました。

創作+αの色々Ⅲ

幾何学

 

 ・セリフ削りたいマン

  瀬戸さんがあまり納得いってないご様子だったセリフ。

  エアリプで代替案を出してました。

 ポイントは

・できるだけ短く、やり取りで

・説明ゼリフは破壊、見て判ることに言葉を使わない

・その分日常の動作や台詞を増補し、会話感を出す

 これで大分雰囲気が変わります。

 

・BL

 について、ちょっと勉強していたのですが、なかなかどうして難しいということが判りました。と言うのは、同性愛が云々ではなく。

  好きなジャンルと言うのは、そういうお約束が身についていたり、お約束に抵抗感が無かったりする、と言う面もあり、そうでない所からあるジャンルへと突入すると言うのは、本当に壁が高いなあ、と思ったのでした。

 いい勉強になりました。

 

 

 

 次はちょっと長くなりそうなので、今日はここまでにしておきます。