XR創作大賞お疲れさまでした!


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皆さんおはこんにちばんわ(絶滅危惧Ⅱ類(DD))

 

 めちゃくちゃ久しぶりのブログ更新です。先日人生で初めて完結した漫画を描きました。それが意外と反応を頂きまして、うれしい限りです。

 

 本当は作品について連ツイしようと思ってたんですが、内容をまとめておこうと思います。

 

 と深夜2時に書き始め、早朝書き終えて勢いツイートして寝て起きたら、意味不明の怪文書がPCに遺されてて泣いちゃったので、とりあえず要約を書いていこうと思います。要約だけ読めばOKです。
 怪文書は最後の方に残しておくので、酔狂な人は読んでみてください。
 
 ざっくり時系列作品解説です。
 ただしほとんどが、作品投稿後に改めて考えたことです。
 結果として、以下に続くのは「あのエンディングを自分で納得する為の後出しじゃんけん」です。
 Fateに対するFateZeroみたいなもんです。将棋でいえば感想戦。とはいえ、何も考えないで漫画が描ける訳はないので、
 
 最初から考えていたことを青で。
 投稿後考え足した部分を赤で表示することにします。

 

 何となくどういう骨組みであの漫画ができていたかを読み取ってもらえるかなと思います。
 そして、この時系列は完全に私的なもので、皆さんの読み取ったものが正解であることを強調しておきたいと思います。赤の部分は完全に後付けなので、作品から読み取れる訳もないし、それに基づく解釈などは、妄想以外の何物でもありません。ただ、どうしても判らなかったな、判りたかったな、という方のために、解釈の一つとして提示するものです。
 前置きが長くなりました。
 

 


 舞台は近未来の日本です
 この時代では人口減少と労働の自動化で、生身の人間と逢わなくてもある程度暮らせます
 しかし政府としては、もっと軽率に出逢ってまぐわってもらわないと困る。
 民間企業もその方針に従い、マッチングシステムの開発が加速します。

 結果、ARやVRも含めて、ネット全体が出会い系サイトみたいになり、UIもシステムもどんどん俗っぽくなります
 若い人たちはそのダサさに辟易し、LiLy.sのような清潔感やら透明感やらが流行ります。

 アレクサンドリア主義者みたいな連中も出てきます。

 

 一方で、マッチングシステムの高度化で、社会全体でクラスタ化が進行し、各クラスタは急速にタコツボ化していきます。
 しかし、システムが上手いことクラスタを采配するため、大きなトラブルは起きずに、事態は深化していきます
 そのうち、クラスタ内のメンバーが各々自分勝手に振舞っても、不都合が出るどころか上手い事やれてしまうような、極まったクラスタが出現します。
 ここに至って、ただのお題目だった「全人格主義」が、限定的ながら成立することになりました


 極まったクラスタのメンバーは「やりたいこと(自意識)」と「やるべきこと(社会的役割)」が、完全に融合しています。
 これを、人間のカンペキな状態とみなし、次世代の幸福の形だと喧伝し始める勢力が顕れます。
 そして、カンペキを求めることが、新しい世代の処世術であると言いふらします
 無論このカンペキは、マッチングシステムの利用を前提とする為、システムの管理者たちは支持します。
 結果、プラットフォーム全体で、カンペキ(全人格主義の実現)がロマンの対象として受け入れられるようになります。

 

 カンペキなクラスタに所属すればカンペキな自分になれる、という発想から、カンペキなクラスタになるよう努力することが、カンペキな自分になること、みたいな言説が割と一般化します
 カンペキな自己=カンペキなクラスタ=カンペキなメンバー、努力とシステムの相乗効果で、もともとタコツボ化していたクラスタ内で、自他+環境の境界がどんどん曖昧になって行きます
 自意識と他者との相克がほとんど意識されなくなり、最適化が進めば進むほど、快適に、クラスタと自己は同一化していきます
 また同時に、個人の領域を超えて自己肯定感が強化されていきます。
 
 とまあ、そういうことが起こって20年程経ちました
 若い世代はカンペキの輝きを当然のものと思っています
 一方30代以上の世代では、「カンペキ」に疑念を持っている人も少なくありません。コミュニケーション能力の自殺的退廃であると言う人もいます。
 しかし若者の間では「より馴染む人と消耗せず暮らす事が人口減少社会で生産性を効率化させる手段である」という言説が支持されており世代間には大きな断絶が横たわっています
 
 さて、MZも主人公も、当然カンペキに憧れていました。
 一方で、エンジニアはそうでもありません彼にとってはネットよりも実在こそが重要でしたし、そもそも彼は40代で、クラスタの概念とかもなんかちょっと没頭はできないかな、みたいな。
 MZは死を悟った時、カンペキではないけれど楽しい自分のクラスタを壊さないように自分の死を隠します。
 自分とクラスタとがほとんど同価値になっているため、天使となっても自分が所属するクラスタが楽しく存続すれば、自分自身の存在も楽しく存続する、という感覚があったのです
 もちろん、エンジニアにはそこまでの切実さは理解しがたいものでした
 MZはエンジニアを信頼してリングを渡しますが、結果としては遺志を裏切られる形になります。
 主人公はMZへの不信クラスタへの不信を抱いて墓参りに向かいます
 しかし、エンジニアの激重感情によりMZは完全に死んだことが確定してしまいました
 また、現実の土着的クラスタとネット上のクラスタが、何の配慮もなく悪魔合体された様子に、主人公はだいぶショックを受けます。
 そこに在ったのは、MZのアイデンティティを粉砕し、独占してしまう強烈な他者=エンジニア=エゴでした。
 主人公は直感的にそのエゴを拒否し、同時に他者のエゴを強烈に否定する「自らのエゴ」に気づきます。 
 疎外された自己。そして他者を否定する自己。激しい自己のうめき声に、主人公は当惑します
 
 カンペキを求めるクラスタは内的に内的に、全人格主義を実現しようと努力しますが、そういうノリが合わない人もいます
 そういう人達は、ペルソナを駆使しながら腰掛的にクラスタを放浪します。
 安らぎなき流浪の民が用いるテクニックが「表現評価主義」です
 同質化した集団を渡り歩きながら、どこにも所属せず自己を保ち、他者と世界と自己とを、相対して捉える世界観です。
 疎外された自己の目覚め、対置する他者、事実としてのみ残るかつての友人であった死者。
 この相克の中で、主人公は世界が相対的であることを受け入れなければならなくなりました
 そしてそんな彼の下に舞い降りたのが、表現評価主義と架空との交錯点に生まれた火花、つまりは勝手な妄想の産物であるMZの幻影でした。
 現実、他者、世界、そのすべてに判らないことがあることを認め、あるいはそれを埋めようとする自らの妄想を認める。
 それが表現評価主義です。
 主人公は最後に、自らのエゴを自覚し、妄想に逃避する自分を自覚することで、相対世界の虚空を進んでいく術を手に入れたのでした。

 

おわり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……

 

 

 

そうだね、サルトルだね!

 

ja.wikipedia.org

 

…要約なのにずいぶん長くなってしまいました。なんだか自分でも書いててよく判らなくなってきました。

 正直、僕はこの漫画を描いたときに、終わり方に納得できていませんでした。単に主人公が、現実もネットも他者なんて全部妄想や! と現実逃避して終わるように見えたからです。(そして本来的にはそのとおりです)
 ですが、意外にもたくさんの反響をいただき、少し考え込んでしまいました。
 何が、皆さんの琴線に触れたのだろう?
 もしかしたら作中の別のところが重要で、ラストはまあお目こぼし、というような感覚だったのでしょうか?
 こればっかりはわかりません。とても知りたいです。
 とにかく、ラストに何かしらの説得力を持たせなければ気が済みませんでした。
 僕なりの解釈が必要でした。
 その結果考え出されたのが上記の概要です。
 振り返ってみれば、マイクロ共同体主義新左翼の類似性やら、実存主義の勉強し直しと疎外された自己やら、そもそもがバーチャル美少女シンギュラリティを読んだ後感想書くために勉強した吉本隆明共同幻想やら、なんやら。
 物語は物語として、出来るだけ深入りしないと決めて描きましたが、解釈となると見えない連続性を自分の了見でつないでしまう。感想はまさにその人の知識領域以上の物にはならんです……
 
 それはそれとして、ですが。
 今回は本当に、自分が納得できていないものを出して、望外に反応を頂く、その結果改めて考える、と、表現がある種のコミュニケーションであることを実感した次第でした。やっぱり人に見せるのって大事やね。
 色々感想を頂けた皆さん。そして、今回このような機会を用意してくださった運営の皆さん、そして、この作品の一番最初の動機になってくれたバーチャル美少女ねむちゃんに感謝を述べて、いったん幕を引こうと思います。
 ありがとうございました。

 

以下、怪文書。概ね上記の概要を詳説したものです。

 

 先日投稿した拙作「ネット友達の墓参り行ってきたレポ」ですが、望外の反応を頂きまして、ただただ圧倒されつつ大変うれしく思っております。
 色々な感想を頂けた一方で「よく判らなかった」という声も散見しております、野暮かなあとは思いながら……何を所詮、アマチュアワークに過ぎないものが、なんだか立派になったと勘違いしてやがると正気を保って、作品を作る経緯と、構造や隠しネタ等全部話すことにしました。
 なお、以下の内容は最初からすべて自分で考えたのでなく、投稿後いただいた感想を読んで、逆にそういう話だったのか、と自ら気づいた部分、そしてそれを踏まえて考え足した部分が(大量に)含まれています。
 
 ゴタクは良いのでサクサク行きましょう。まずは作品のバックグラウンドです。ラストページで無理やり説明的に触れている部分もあるのですが、投稿後考えたことも含めて網羅すると、多分ほとんどこの構造が見えてる人はいないんじゃないだろうか。(というか見えてたらエスパーだ)
 見えてた人は心の中でほくそえんでください。あるいはツイートなりコメントなりで表明してもらえるとうれしいです。
 あなたが読み込んでくれたこと、あるいは、ぼくが表現として適切な情報提供ラインを攻められたということが判るからです。
 
 前提として、ややこしい単語を定義しておきます。
 「実在」:今回は人間の話なので生命機能に基づく肉体、およびそれに付随する社会的諸々です。現実存在のことですが、現実とは仮想とは、で定義合戦みたいになることもあるので、この単語を使います。
 「存在」:そこに在る、ということ。定義的には自己や他者の認識領域で共通して何かしらが認知されてること。
 
 まず、作中の世界は、近未来の日本を想定しています。
 先進国では人口減少が進み、また労働の自動化とともに【作中の主人公のようにほとんど生身の人と接触しなくとも生活できる】ようになっています。
 しかし、むしろ各国政府は少子化を喫緊課題として、人間同士の生身の出会いを奨励しています。そして、その重責を担っているのがインターネットです。
 つまり、国家総動員出会い系時代です。
 無論ネット接続のAR、VRシステムもその方向性に発展しており【ルバーブなんかはあんな下品なUIになっていて】一部の人間にはめちゃくちゃ不評です。それでもとにかく人と人とを出合わせ、少なくなった人流を適切に商業地区に誘導することが、この時代では極めて重要な意味を持つのです。そのために、ARナビゲートなどはどんどん、派手に、安易に、俗っぽくなっていきます。そして若者の間では、そのカウンターとしてのカルチャーが育ちつつあり、LiLy.sもそれを先導する一人です。
 この世界では、人間関係でのストレスは現代に比べると希薄化しています。嫌な人とは会わなくて済む選択肢が増え、可処分時間は自分と気の合う人とだけ過ごすことが容易になっています。
 その根幹にあるのが、民間企業がこぞって精度を高めようとしている「マッチングAI」です。
 この作品はSFなので、マッチングAI万歳ではもちろん終わりません。いろんな問題が生じましたが、一応それでも人口減少を食い止めるという超重要課題の前に見逃されています。
 大きな問題の一つが【過度な同質クラスタ化の進行】です。マッチングAIのユーザー体験における重点は、いかに不愉快な人間と出会わずに済むかに尽きます。当然同じような人間同士が引っ付くようになります。社会的分断はめちゃくちゃ進むのですが、先述の通り、実在空間で自分と別種の人間と逢わなくて済むので、あんまり問題が表面化しません。ネット上でクラスタ同士の不毛な思想戦争をやっている人もいますが、それももう何年も続いているので大半の人は飽きてそれぞれのクラスタに引きこもっています。
 内向きになったクラスタ内では他のクラスタへの反発意識や自分たちのクラスタへの全体主義帰属意識が熟成されます。そしてそれを、マッチングシステムの管理者たちは容認しています。管理者たちも民間企業なので「より精度の高いAIであるとアピールするために、人間側を単純化した方がいい」と気づいているからです。
 当然【対人コミュニケーション能力が低下】します。結構致命的問題な気もしますが、その不和はAIがより最適なクラスタにやんわり分割、再統合を繰り返すことでほとんど表面化しません。
 
 ここで、同質化したクラスタが、所属個人にもたらす絶対性について言及しておきましょう。
 マッチングAIの最適化が常に行われるクラスタ内では、クラスタ内個人の「社会的役割」と「自意識」はほとんど意識されることなく分離することもありません。もとより自と他が同質の集団である上に、自分勝手に快感を追求していても、各役割を果たし集団が整うようにAIが調整する為です。
 クラスタの中にいる限り、個人は全人格的に振舞い、かつ社会的存在として完全になることができます。これが、この時代における理想的なクラスタにおける個人の絶対性の顕現なのです。これを原始社会の「個と社会の未分化状態」になぞらえて「原始の安らぎ」と称します。

 結果この時代の人間は、クラスタに耽溺、あるいはペルソナを使い分けながら渡り歩く、という基本的な社会観を育むことになりました。しかし、いくつかのクラスタを渡り歩けばすぐにわかりますが、同質性が高すぎる組織は往々に腐敗します。しかもどのクラスタに行っても大体同様な状況になっています。(クラスタを腰掛として、深入りしない主義の人達のクラスタもありますが、そこに所属しても自分の帰属意識はさして高まりません。「原始の安らぎ」を得られるクラスタを見つけられるか、あるいはそれを形成できるかが、この時代の人間関係の重要項目となっているのです)
 そんな中で、グレーゾーンな人間関係を受け入れる余地がなくなり、社会思想も退廃します。結果、人間関係の捉え方が、耽溺コミュニケーション【全人格主義】と、刹那的ペルソナコミュニケーション【表現評価主義】に大きく分かれていくのです。
 そんな状況において、商業主義的人格ネットワークはすでに破綻している、不完全なシステムが人間そのものを破壊していると言い出したのが【アレクサンドリア主義者】たちです。
 彼らは思想集団ですが、財団を形成し、大図書館に相当するWEBサイトを中心に生息しています。そのサイトでは全ての人の発言は「一冊の本」として「誰かに読まれる」形式をとっており、基本的に一方通行です。また、発言の投稿から反映まで3日位かかり、リアルタイムコミュニケーションができないようになっています。
 さて、そんな中で【鏡越しの実在】の問題が大きくなります。実在同士で出逢うことを前提に行動する「アウター」はまだましですが、ネット上のコミュニケーションを重視する「インナー」たちにとっては、鏡越しの実在は、いつでも彼らの安寧を破壊する不安要素です。今作の主人公も「インナー」に属すると言えるでしょう。
 ちなみに、この状況が生み出されて20年ほどたっています。
 主人公は20代半ばであり、彼にとってのコミュニケーションはほとんど前述のとおりです。
 一方、エンジニアは40代前半です。彼はまだ社会がこんなになる前に人格の基礎形成を済ませており、ある程度他者への受容の素養があります。また、「原始の安らぎ」を進歩と捉える向きに疑念を抱く余地があります。
 この世代間の意識の差は、極めて大きな分断として社会に横たわっています。

 ここまでが、今作のバックグラウンドです。
 
 さて、その上で、この作品が描いていた状況と、どういう思想性を表現することになったかを説いていきたいと思います。繰り返しになりますが、以下の内容は投稿後に考えたものが多分に含まれます。
 
 身も蓋もないことを言ってしまえば、この作品の結論は「逃避」と言ってしまえるかもしれません。
 主人公の不安は、単に友人の実在に対する不安を越え、自分が属するクラスタへの不信に発展しています。だから、疑いながらも確認しに行かざるを得ませんでした。世界に対して自分が相対であることは、この時代の人達にとっては大きな不安です。理想のクラスタでは、自分が部分要素として安定した絶対性を保てます。
 しかし結果として彼は、自分の居場所の絶対性の崩壊に直面します。
 主人公は【MZの実在に直面】し、自分がクラスタに於いて相対的存在である事を受け入れざるを得ませんでした。そして、その瞬間に【彼もまた天使になる】ことを受け入れたことになります。
 主人公は、自分の自意識が固有のクラスタから外れ、相対的関係性の虚空に放り出されたことに気づきました。そしてそのとき、表現評価主義と架空との交錯点に生まれた火花、つまりは勝手な妄想の産物である【MZの幻影が彼の下に舞い降ります】。
 最終的に主人公は、「他者から表現評価主義的に存在を認められるペルソナ≒バーチャル」こそ、インナーである彼自身の、あるいはMZも含めてすべての存在の在り処だと納得せざるを得なくなったのです。

 この作品における主人公の到達点は、現在の我々から見れば「妄想への逃避」に過ぎません。実際、僕も投稿直後は「こんな終わり方で良いのだろうか」と悩んでいました。しかし色々な反響があり、彼には彼なりの納得する理由があったのではないかと考えていくうちに、彼は作中社会における「現実的成長」を経験したのだと思えてきました。あるいは、クラスタ主義から突如として相対的意識の自由の中に放り出された主人公の、目覚めと旅立ち……
 我々の現在的な理解と、作中の表する意味、二つの落差が、彼の苦悩の潜在的な面白さの正体だったのかもしれません。
 
 さて、ここで一つ、重要なネタバレをしておこうと思います。

 実はエンジニアは「MZの遺志を無視して」勝手に墓のシステムを作り、クラスタのメンバーに墓参りの案内をしたのです。
 
(ここに関しては色々な解釈があった方が面白いと思いましたので、あえてこれが絶対と決めつける意図はないのですが、一応、作る側としてはそのつもりで描いたとお伝えしておきます。でも、皆さんの受け止めたものを一番大事にしてもらいたいです)

 エンジニアの独白
 【僕が死んでも、多分会えないから】
 は
 「僕が死んでも、勝手なことをしてしまったから、合わせる顔がないので会えない」
 と言うつもりで描いたセリフです。
 MZは自らの死を悟って【天使になることを選択しました】。つまりMZはMZとして、クラスタに存在し続けることを選択したのです。そして、その試みは成功しました。
 しかし一方で、【エンジニアにリングを渡しています】。無論、このリングというのは結婚指輪を意識したアイテムで、貸与できる権限も極めて大きく、なまじの相手に渡すものではありません。
 MZはあくまで個人的にエンジニアに自分の実在を晒したつもりでした。もちろん、自分の死後の対応を任せる部分はあったでしょうが、それはむしろ天使の自分をサポートしてくれることを期待したのではないでしょうか。
 しかし【エンジニアは墓のシステムを作り】MZのアカウントを通じて、友人たちに案内を送ります。それはMZにとって、ネット上の自分を完全に殺される行為でもあり、またネット上と実在とで分かれていた所属クラスタを許可なく融合させる行為でもあります。
 エンジニアはクラスタの重要性を、主人公やMZほどには理解していません。彼には実在という絶対的価値観が存在しており、だからこそ、お墓というきわめて実在的な存在に縋りつくことになりました。とはいえ、勝手なことをしている自覚もあり、それがエンジニアの迷いに現れています。
 エンジニアは【多くの人に知ってもらうことで、自分の愛したMZの実在を確かなものにしようとしました】。感情的には否定しづらい部分が無きにしも非ずですが、倫理的問題は残ります。ちなみにMZの家族は同意しています。
 ボイスチェンジャーも発展しきってるので、【主人公はエンジニアの正体は最後まで分からずじまい】でした。

 正直な話、当初エンジニアは僕にとって、単なる物語上の役割キャラでしかありませんでした。しかし出来上がって見ると、案外しっかりと主人公と対比になっていました。
 実在に拘り墓の前に留まるエンジニアと、妄想と知りながら進もうとする主人公。
 あるいは、弔う事で愛する人を永遠に死者にするエンジニアと、空想によってその存在を胸の内に掬う主人公。 
 その対比が、この作品の面白さに繋がっているのかも知れないと感じました。
 故人はどこに在るのか。あるいはもはや他者はどこに在るのか。社会が変わってしまえば、他者の在り処も変わってしまうのではないか……それがもしかしたら、この作品の一番SF的な問いなのかもしれません。
 

 

 最後まで読んだ変な人に
 
 
 おまけ豆知識
 
・仮想美少女シンギュラリティを読んだ感想を、小説形式にしようとアイデアを出していた、それがこの作品の一番最初です。
 「リング」とネットの向こうの死、というモチーフは最初期から持ち越されています。一番最初期のネタでは、知り合いの死を通じて、仮想化された人格が神格化した「バーチャル美少女のはじまり」を訪ねる、というちょっとしたバーチャルワールド冒険ものだったのですが、直後にレディ・プレーヤー・ワンが公開されちゃったので、ハードルが爆上がりして挫けたんですよね……

 

・そもそも僕はV存在でもないし、VR機器も持ってないしで、こんな話書いちゃっていいのかなあ……って気持ちはいまだあります。

 

・漫画はSAIで描きました。正直漫画には向かないかもなあと思いながら、パース定規に助けられながら頑張りました。クリスタって良いのかな? 枠線引いたり吹き出しが楽だったりするらしいですね。とにかく漫画は難しいと実感しました……

 

・そもそも、あまり大きな、或いは誰も思いつかないような設定は思いつかないので、すでに予言されているテクノロジーをつるべ打ちにして、それを統一した世界として見せ、かつドラマで筋を通せばいいだろうと考えて描き始めました。

 XR創作大賞のようなアイデア勝負のような賞にはどうかと思いましたが、まあ、そこは織り込み済みで。できないことはできないしね。

 

・MorICarの車輪は球で、超信地旋回や真横に移動することができます。なので、扉は片側だけが開く仕様です。シートベルトの構造が納得いってないんですよね。

 

・コンビニは実は無人店舗。

 

ルバーブは一応覇権とってるトータルアプリという位置づけで考えています。

 

 

 

 

 こんなもんかなあ……

  ★みんなありがとー!