自分が内向的寅さんだった話


スポンサードリンク

 
 昔から何を考えているのかよく判らないと言われてきたが、赤の他人が何を考えているのか、判ったら不気味だろうとずっと思ってきた。たぶん他者に対する類型的理解にあてはまらなかったのだろうと考えてきたのだが、微妙な違和感がずっとあったのである。
 今朝見た夢は、努力をして何かを成し遂げる夢だったように思う。自分は気持ちよく努力をする側で、そうできない誰かをもどかしく見ていたような気がする。
 そうして目覚めて初めて、つまり努力できる人の視点に立って初めて

 「貴方のふるまいは、努力している人たちに失礼だ」

 と言う言葉の意味が芯から理解できた。(そのセリフを直接言われた事はないが、そう言いたげな遠慮がちな物言いには幾度も接してきた)
 別にやる気を出してないとか、茶化しているとかではないのだ。話を真面目に聞き、言われた通りにやり、自分なりに改善点を見つけて修正する。だが、それがどうも周囲に比べて進度も成長度も遅い。何でだろうと思っていた。
 
 できているらしい人は、あまりにも当たり前の事過ぎて、このギャップが理解できないらしい。
 こっちも、できているらしい人が、どうして不愉快そうなのか、まったく判らない。
 
 おそらく「何を考えているのか良く判らない」は、
 「なぜ(何を考えて)あなたがここに居るのか(そして我々と同じ活動をするのか)良く判らない」
 という事だったのではないだろうか。物事への向き合い方が違いすぎるが故の違和感だ。
 そういう人たちとの一番のギャップは、「自らの意思でそこに居るという事の重さの差」だったのだろうと思う。(漫画でよく見る奴だ!! 今まで全く気づいてなかった!)
 
 自分はあまり人生にクヨクヨしていない。楽観的で、自己存在にもある種の肯定感がある。
 一方で自己充足が過ぎる面があり、無目的だし、憧れもなく、希望も特にない。
 こういう人間と、強い憧れや執着に従う人間とが対面すると、軋轢を生みやすいのだろう。
 特に後者の人間が、その欲求を満たす方法として努力を用いた場合、欲求は正当性を帯び、生産の面でも倫理の面でも、絶対性が強まる。後者の人間はその絶対性を積み上げ、今この場所に居ると考えている。選択はその為の重要なファクターであると考えるはずだ。
 そして実際、彼らは(前者の人間とは)次元の違う努力を成し得る。努力は目的を達成する効率的手段であり、覚悟もまたその一段階である、と考える。
 彼らの強い欲求を、社会の認める絶対性で固める。それは鉄壁の塔である。心柱は高く天まで無限に伸びている。
 一方こちらはそうではない。成り行きである。なんとなくである。そうなっちゃったのである。心柱などなく、ただ決めた通り漆喰を積み上げていくだけなのだ。出来上がりにはけだし雲泥の差がある。
 
 生産結果に差が出るのだから、使役する側はそういう人間の差異をよく見極めるらしい。目的意識を持っているか。夢があるか。つまり欲があって、それに向けて努力をしているかである。それが極端な所まで行けば「やる気が感じられるか」という頭の悪い基準になっていくが、無目的な「やる気」が無能の証であるのもまた一面の事実であるし(過去に自分もやらかしたことがある)、使役側の想定する成長に結び付かない別ベクトルのエネルギーは、相応のコントロールを要する(だからそれを理解した指導者と、エネルギーのある人員の出会いは、幸福なものである)。

 閑話。
 この話を知り合いにしたら、「お前はF1サーキットで車に乗って、ハンドルを握ってるのに一向に発進する素振りがない」ように見えていた、という事だった。なるほど。サーキットにはレースと言うルールがある。観客と言うプレッシャーもあるし、競争心やプライドもある。普通なら慌ててアクセルを踏み、訳も判らず走り続けるうちにドラマもあるものだろう。それがどうも自分にはまるでない物らしい。F1が大仰なら、公道でもゴーカートでも同じことだ(操舵の難易度やスピード、観客の夥多はあるが)。
 実際には、レースをしなければならないというルールは、みなが共同にもつ幻想のようなものだ。だからコース上で立ち止まっている奴が居たって問題はないし、それを他のレーサーが叱りつけるのは妙な事だし、先頭が後続を見下すのも、無理からぬとは言えあくまで知ったこっちゃない価値観だ。
 だが、一つだけゆるがないのは「走らないと絶対にゴールには辿り着かない」という事だ。どんなことをしていたって良いし、どれだけ先頭と差が開こうが関係ないが、それだけは事実だ。
 ただ、一つ重要なことが抜けている。
 「ゴール」がない場合がある。勿論、もともとすべての人間にゴールなどない。ゴールは自ら設定し、折々に達成され、或いは失敗し、新たに設定していくものだ。だから、いまゴールを持っている人は、自らゴールを決定する能力を培った人間であるという事だ。(ついでに言えば、そのゴールと社会との親和性がある程度ある)
 改めて考えると、自分は「ゴール」を設定するのが致命的に下手なのだ。(無茶な目標を立てるというのではない。むしろ計画は好きな方だ)
 「ゴール」とは到達点だ。努力、偶然その他成り行きを踏まえて、自らがその結果に納得し、充足を感じ、他者に認められ(ると信じ)、ある程度の妥当性の上に結実するだろうと想定できるものだ。
 つまり一言で言えば「夢」
 
 云々。
 
 と、ここまで考えて、自分を社会から遠く置きすぎたために、達成による外的快感の経験が委縮し、具体性を伴った(快感の)想定ができない(が故に、その快感に向けての努力もできない)のだというあまりにも辛すぎる結論に至ったのでこの話はここで終わりにしておきます。
 ただ環境の影響で、(快感を伴うはずの)選択肢が想定できなくなり(故に選択できなくなる)、更にドツボにはまって自発的なエネルギーを衰退させていく例は、過去にいくつか見ています。夢を見れなくなる。夢の形式だけを追う。こわいこわい(他人事ではない)
 
 余談。
 今まで社会生活を拒否してきたわけではないです。普通に暮らしてきたけれども、他者から自己を守ることの方が重要だったらしい。限界中年になりつつあるが、そのおかげで、社会で活躍する年下の人が増え、ようやく自分を棚に上げて、努力だとか、コミュニケーションだとかを見渡せるようになったのだと思う。若い人、みんなすごいよ。俺も今更だけどがんばるよ。
 
 
 
 でも、ある一定の人口が在るのではないだろうか。
 人間はペルソナを使い分ける。と言う。だが、社会的欲求を持たない人間は、仮面の使い分けに価値を見出さない。何も得ようとしないなら、仮面など必要ない。そんな人間は、いかにも幼稚で、怠惰に見え、実際に社会的地位は極めて低いだろう。

 あるいは欲求があってもゴールがうまく見だせないから、いつまでも手あたり次第に走り回るだけで、結果を見ると何も成していない。

 ここまで考えて、そういった人間を描いたのが寅さんだったのかも知れないと思い至った。
 肩ひじ(つまり社会的に高度な欲求)を貼らずに、人柄だけで世を渡っていく人間の悲喜こもごも。寅さんに大望なんて望むほうが野暮に感じるくらいだ。
 寅さんは外交的だし内的衝動があるから何とかなる(令和の世に通じるかは怪しい所があるが)けれど、内向的だったらどうだったろうか。 
 内向的寅さんに、はたして社会は価値を見出し得るだろうか。彼らは自己充足のみで満足すべきなのか、或いはそうかもしれない。
 これは、喪われた数十年に萎え切った一人の人間の卑屈な観点に過ぎないが、彼らは本当に、歴史に埋没すべき存在であるのか? そうであると断言するのをためらう程度に、僕と同じような人間が世の中にいる気がしている。

 

 僕が、がんばるよ、と、今自らに空疎でなく言えるのは、今回の思索を通じて自らの状態を認識できたが故である。
 

 

 夢とは?
 
 抱いて前に進むものではない。少なくとも僕にとっては。
 
 その先に、本当に自分の望むものが在るのかどうか、行ってからさぐるものだった。