ヘブバン3周年記念イベストを解説したり考察したり感想したりするよ
ヘブバン3周年おめでとうございます!
なんか挨拶の仕方すら忘れかけているのですが、生きてます。
以前の記事から今日までに、64ページのオリジナル百合漫画を書いたり、30000字程度のオリジナル百合小説を書いたりなど細々と活動していたのですが、まとまった感想文なんてめちゃくちゃ久しぶりです。
ヘブバン3周年、ファンの活動も増えてきて、なんかどんどん良い感じになってきたなと思います。自分ができることはそんなにないので、せめてこの文章に思いを込めておくことにしました。20000字程度です。ご笑覧ください。
***
はじめに
この記事は、ヘブンバーンズレッド(以下ヘブバン)3周年記念イベントストーリー「あの娘ぼくが唯一の光だと言ったらどんな顔するだろう」の内容について、シナリオライター麻枝准氏の経歴を簡単に追いながら、ヘブバンで展開される宇宙観(コスモロジー)に触れつつ、理解のための補助線を幾つか引いてみようと試みるものです。
なお、一介のファンが、いつか見た程度の知識と時系列をパズルにして語る内容ですので、往年の鍵オタの方々には見るに耐えない誤認等ありましょうが、ご容赦の上、各々の発言場所で冷静なご指摘を頂ければと思います。
内容は若い世代のヘブバンプレイヤーの方たちにもわかりよくするために、非常に基礎的な知識を踏まえながら順に展開するものとします。
・「シナリオライター麻枝准」
まず、麻枝准氏が何者かであるかを非常に簡単に述べてゆきます。
麻枝准氏はもともとエロゲーのシナリオライターです。エロゲーというのは、その名の通り、性行為を含んだ恋愛ドラマを扱うゲームの総称であり、麻枝氏デビューの作品群は、ADVと呼ばれる選択肢で展開するノベルゲームでした。
麻枝氏とそのチームは(他にも言及すべきすごい人達がめっちゃ居るのですが、今回は省略)、「泣きゲー」を以て90年代後半のオタクたちを震撼させ、後々の美少女系コンテンツに多大な影響を与えました。
ONE、KANON、AIRと出る作品で次々話題をさらいましたが、麻枝氏は少しトリッキーなシナリオの書き手として認知されており、特にエロシーンに当たっては正直下手だと言われていたように覚えています。特に、物語に性行為の必然性が感じられず、エロシーンそのものの描写にも(樋上氏の少女作品的な趣のあるCGも相まって)あまり高い評価が与えられていたようには思えません。
そのような時代を経て、麻枝氏はCLANNADでエロゲーから脱却します。CLANNADは今でこそ文句のつけようのない傑作、麻枝氏の代表作とされていますが、当時は発売延期を重ね、プロジェクト全体を率い、メインのライターであった麻枝氏にはかなりのプレッシャーがあったようで、以降の作品ではCLANNADのような大作思考はあまり見られなくなりました。
それから幾つかの作品を挟んで、麻枝氏はアニメの脚本に進出します。ちょうどその頃、エロゲー出身のライターたちが全年齢のメジャー作品を舞台に活躍を始めた時期でした。(まどマギの虚淵氏など)
麻枝氏のファンでもあるクリエイターたちの全面的な協力の下、作られたアニメ第一作が、ヘブバンでもコラボ作品となっている「Angel Beats!」です。アニメ自体はとても良くできた作品だと思いますが、当時のクリエイターインタビューなどで「麻枝氏の脚本は緻密すぎて、アニメ用に再構築するのがとても難しい」というような文章があったのが、印象に残っています。
以降二作品ほどアニメの脚本を手掛けた麻枝氏ですが、持病の心臓病で生死の境を彷徨ったことなどもあり、表舞台からしばらく姿を消していました。(その間美少女ADVゲーム、SummerPockets(アニメ化おめでとうございます!)のクオリティコントロールや作曲などはされていました)
そんな麻枝氏が「ゲームならまだ自分はやれるかもしれない」と、メインライターとして本格的に再始動したのが「ヘブバン」なのです。
・麻枝氏の作風
泣きゲー、泣きシナリオの雄としての自覚を隠さない反面、麻枝氏は自分自身の作風について「泣けそうな展開をお膳立てして、ここぞというタイミングで、音楽で押し切るパワープレイ、それしかできない」というようなことをインタビューで語っており、演出論としてはここが基本となるのは間違いないと思われます。
しかし、これは誰にでもできることではないのは勿論、麻枝氏自身が作曲を行い(もともとはゲーム音楽家志望だったそうです)、そのタイミングについてもコンマ単位でコントロールするという緻密な演出の連携によってなし得るものであり、アニメ作品などではその手足を縛られる苦しい戦いを強いられていたことは想像に難くありません。
「ヘブバン」が、最新のハードで、美しい音楽とともに遊べると聞いたとき、ついに麻枝氏の本領が発揮される時が来たと嬉しく思ったものです。
また、このパワープレイ論に基づくと、過去の氏への評価にも納得の行く部分が多くあります。
例えば、エロシーンの必然性や、それまでの繊細な恋愛感情の変化と言ったものよりも、展開の妙と、決めシーンを構成するために必要な感情のお膳立てが優先されることで、結果として準備不十分なエロシーンが余計になってしまう(しかしエロゲーとして売るためにエロシーンは要るのです)。
アニメの短い尺で、決めシーンに一気に到達するため(アニメは週ごとなので、あまり前のことは視聴者は覚えていられないため、できるだけ直近に情報や展開を詰め込む必要がある)展開や感情に無理が生じてくる。
などですが、ヘブバンはこれらの問題に極めて真摯に向き合って構築されていると感じます。
イベントストーリーによって、並行的に各キャラクターの感情が準備され、それらがいつでも参照できるようになっており、それらがメインのストーリー軸や、別のイベントストーリー軸に多重衝突を起こすことによって、短い物語や一本道の物語では決して実現できない、複雑で連続的な感動を呼び起こすことに成功しています。
これは麻枝氏の得意とする(CLANNADで途絶えていた)方法論が、WFS(ヘブバンの開発会社)の優れた開発力によって最大限スケールアップした状態で実現されている、まさに唯一無二のゲーム体験であると言えるでしょう。
ただし、個々のイベントストーリーに限定してみると、麻枝氏のシナリオはやはり決めシーン特化の印象が強く、それ以外の部分をなんとかギャグ(ドラマでなく)で埋めたり、戦闘シーンをなんとか詰め込んだりと、構成に苦労していそうなシナリオも見られます。(御本人もイベスト書くのは戦闘シーンも入れないとだし大変とAB!コラボ3弾目のシナリオについてインタビューで語っておられました。というか毎回新曲書いてるしね……)
また、決めシーンを決めきったら、あとは余韻などなくスパッと終わらせる、などの手法も試されており、演出についても模索を続けている状態のようですが、ここも評価が分かれているところだと思います。
・ここまでが前置き
さて、これら前提の上で「あの娘」のシナリオについて語ってゆきたいのですが、まず言えることは、このシナリオはパワープレイ的な構造は持ってはいます。
つまり決めシーンですが、これを特殊EDに持ってきています。そういう意味で、物語中にドワーっといい曲を流す今までの演出とはちょっと異なっています。(28メートルの永遠のEDと類似の技法ですね)
ライブを最初に持ってきたのは、ラストにライブをいれるとEDの曲と被ってしまうからで、一通りの話を済ませ、AIユイナがライブ中に感想を呟く余地をつくっています。そして、冒頭で歌詞なんて忘れている視聴者に、物語を終えてもう一度、茅森月歌の思い出と思いが詰まったEDを聞かせてはっとさせる、という方法論でした。
今回のシナリオは、そのような構造は持っているものの、あまり本気で泣かせに来ているようには感じませんでした。もともとバンド音源で泣かせるのは結構難しいもので、更にツインボーカルを駆使した曲だったためにじっくり歌詞を味わうという感じにもなりにくかったです。
しかし一方で、これをしっとりとした曲で締めてしまうと、ちょっと違ったんじゃないかと思うんですよね。AIユイナが月歌を特別に思うのは、その突拍子のなさ、永遠の孤独をほぐしてくれる明るさ、生命力だからです。
だから、ラストの曲はどこか明るい(強い)響きを持っていなければならなかったと思うのですが、これら個人の感想は後でまとめて話すことにします。
さて、いつものパワープレイ構造に従えば、このラストの決めシーン(ED)に到達するまでの流れなんですが、たしかに合間は結構ギャグで埋まってるし、途中から急に規模のでかいコズミックホラーになるしで突拍子もないんですけど、今作に関して言えば、ギャグには全てAIユイナの感情的裏打ちがあったし(はしゃいでいる感じが伝わってくる)、それのはしゃぎを生み出した原因である絶望的な孤独についても、これでもかと演出した上で、連続性を欠いてはいませんでした。不整合な日常シーンの、ぞわぞわするような不気味さなども、もともとのキャラクターや日常をよく知っている(描かれてきた)からこそ成立するもので、それが宇宙の巨大な虚空への恐怖に展開する様子は鮮やかですらありました。
全員○○○○という”嘘”の上に成り立つベブバンの世界はしかし、彼女らの生活と活動そのものによってどんどん”真実”として積み上げられていくのに、主体的生命を欠くシミュレーションの世界では、一枚剥げばすべてが空っぽの虚空。恐ろしく悲しい対比です。
正直に言って、麻枝准シナリオにしては珍しく、あらゆる要素が徹底的にかみ合っている、非常にレベルの高いシナリオだったと思います(カレンちゃんやリセマラなどの挿話っぽいお遊びもありましたが)。
さてここからが本題ですが、このストーリー、正直自分にとっては非常に完成度が高い(周年イベントに相応しいかという部分は、自分が論じ得る範疇を超えていると思いますので除外します)と感じたのですが、それは自分が昔からの麻枝ファンであって、その作品に多数触れてきたうえで、その傾向をいくらか知っているからかもしれないと思いました。
そこで、幾つかの作品から引用しつつ、麻枝氏の世界観を拾って、この作品を理解する手助けになるような手がかりを探したいと思います。
さし当たってキーワードを3つ用意しました。
「崩壊する永遠の世界」
「世界の過酷と神への反抗」
「AI」
です。まだ読み飽きていない方は、続きをどうぞ。
1「崩壊する永遠の世界」
麻枝氏の作品を語るうえで頻繁に出てくるのが、この「永遠の世界」です。この永遠の世界というのは、いわば精神世界であって、現実の世界とは異なる、特殊な世界です。
”永遠は、あるよ ここにあるよ”
-ONE~輝く季節へ
麻枝氏の名前を世に知らしめた泣きゲーの祖、ONEでは、主人公がゆっくりと人々に忘れ去られ、永遠の世界へと旅立ちます。
ONEにおいて、この永遠の世界というのはあまり重要な設定を持たないらしいのですが、現実から一枚隔てた遠い世界であり、現実世界に対するある種のニヒリズムと孤独感を受け止めてくれる(しかし没頭すると一生現実に帰れない)世界のようです。
こういった架空世界を現実世界と並行して持つ人物、そしてその架空世界と現実世界の間で苦悩する展開は、当時の作品にはよくあって、オタクたちの心をわしづかみにしていきました。
今の若い人にはあまりわからない事かもしれませんが、30年前は、オタクはまともに成長できなかった大人のなり損ないみたいな目で見られていました。勿論オタク向けのOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)の市場があったり、その規模は決して小さくなかったのですが、できるだけみんなそれを隠しながら生活していたのです。
そんなオタクたちにとって、架空世界と現実世界の狭間にとらわれる主人公は、ある種の無力感とともに強い共感を呼ぶ存在でした。そして、その架空世界とヒロインとがセットになった作品、つまりセカイ系の作品が、一大ジャンルとなっていったのです。
このセカイ系は、儚い架空世界に属する美しいヒロインと、現実世界との間で揺れ動く恋愛として描かれ、ヒロインを選ぶか、世界が滅びるか、といった極端な問題がしばしば設定され、そのギリギリの背徳的緊張感を楽しむものでもありました。
主人公は、現実を打破する強い意志を持った「俺」ではなく、現実を斜に見ながらも抗うことができない優しく弱い「ボク」であり、架空世界に属するヒロインは「お前」ではなく「キミ」と呼称される作品が、アニメやゲームの枠を超えてブームとなり「ボクキミ小説」などという呼称も生まれました。もう流石に死語ですよね。(ちなみに「涼宮ハルヒの憂鬱」はセカイ系をベースにボクキミ要素を取り払ってやれやれ系主人公と迷惑系ヒロインに置き換え、架空世界をSFとして再定義するという見事なパロディで大ヒットしました。セカイ系ブームも終わりに差し掛かっていた頃の話です)
さて、このセカイ系の構造なのですが、麻枝氏がそういう作品の作家であったかというと、実はそれほどでもありません。しかし、ONEには永遠の世界を案内する少女(メインヒロインの幼い姿)がいますし、CLLANADの幻想世界には汐(主人公の娘)とされる少女がいます。作品の前面には出てこないものの、バックグラウンドの世界観にはそれらしき架空世界とヒロインとがセットになっています。
また、麻枝氏の楽曲には、よりその世界観を如実に表すものなどもあって
”いつかこの身が滅びても 僕は夢見る どこまでも続いてゆく 悲しい景色 キミと笑ってた”
-恋心
この曲は多分2010年頃に、麻枝氏が、自分で一番気に入っている自作の曲であると公言していた(記録紛失)恋心という曲で、この他にも
”二人が目指した夢は遠い 二人がなくした夢も遠い”
-Hanabi
”卵でさえうまく割れない そんな不器用なキミなのに この世界を救えるという その身を犠牲にして”
-Karma
など、ヒロインと緊密に連続した世界そのものというセカイ系の特徴がはっきりと現れていました。
これらの楽曲よりのち、Angel Beats! における様々な楽曲を挟んで、2017年頃からコンセプトが違うとはいえ、方向性が違う歌詞がだんだん現れてきます。
”最近あなたはどうで 誰かと笑ったりもして それなりに上手くやっているでしょうか?”
-ひきこもりの唄
”心は孤独だね それも当然で 体しか繋がれない 生き物です”
-Bus Stop
”そろそろ新しい暮らしにも慣れてきた頃 この街で知った全部好きになる まだ寂しいけど”
-銀色世界
これらの遍歴を詳しく論じることは(楽曲の抜粋もほんの一部だし)詳しいお歴々に任せておくことにしようと思いますが、これらを経てヘブバンでは、先程の恋心の歌詞が変更されています。
”いつかこの身が滅んでも 僕は探すよ どこまでも続いてゆく悲しい景色 きみが遠くなる”
-恋心 Rest in Peace
明らかに理想としてあるべき世界と、ヒロインとの距離感が変わっています。麻枝氏は、シーレジェの曲以外は作品に合うように書いているので私情は入れていない的なことをインタビューで言っていたと思うのですが、ベースになる世界観が変わっていれば当然歌詞も変わってくると思います。
また、逆説的にシーレジェの曲には私情を結構入れているということでもあるので
”死んでたような毎日が きらきらと輝きだした それは全部きみと会えたから 会えたんだ 会えたよね? 会えたっけ 会えた気が しただけか”
-美しい花咲く丘で
などと、世界とヒロインとの関係性にはっきりと亀裂が入っていることが見て取れるのです。この世界とヒロインと亀裂の奥に広がる虚空。象徴であるヒロインを信じることができなくなった時、自分が作る、信じる世界、頑張る理由、それらが何もかも空っぽになる無力感。
シーレジェの曲は「君がいるから生きていける、君のために生きてる」といった内容の曲も多いと思うのですが、それは相手が「生きている、隣りにいる・いた君」であり、肩を組んで、抱き合って、一緒に食事をして、お風呂に入って、そういう自分の存在を確かにしてくれる相手に対する思いであって、「美しい花咲く丘で」で語られる「まだ出会ってもいない理想の君」と、そんな君がいる「美しい花咲く丘」は、それを信じられなくなった瞬間にあっという間に無になってしまう。(そういう意味で美しい花咲く丘ではちょっと特殊な曲です)
ここにおいて永遠の世界は崩壊し、永遠のヒロインも喪われ、ただ存在し生きている自分を取り巻く虚空だけがある。ヘブバンの世界観の根幹に、この架空世界の虚無と戦うというコンセプトが見られる(セラフ部隊員たちは架空を剥ぎ取られ虚無と直面するが、それでも生きる道を選ぶ)以上、前提としてこの架空世界の虚無が深く根っこに横たわっていることは推察できそうです。
”意味も理由も捨て去った日は 誰と笑うだろう”
-After You Sleep
なお、蛇足ではありますが、今回のイベストにおける架空世界とはAIユイナのシミュレーションであり、永遠のヒロインとは茅森月歌であり、そのヴェールを一枚剥ぐと無限の宇宙という虚無が広がっている、という構造で、これはセカイ系が成り立たなくなった現在において、メタ的視点から再構築されたセカイ系であると言えるかもしれません。
今回のイベストは、この架空世界の虚無をコズミックホラーの援用によって表現した作品であると評することができそうで、そうするとこの作品の主人公がAIであることにも、必然性が現れてくるのですが、それは「AI」の項目でお話しようと思います。
2「世界の過酷と神への抵抗」
麻枝氏の作品の顕著なテーマにもう一つ触れていきましょう。それが「過酷と抵抗」です。
これはゲーム作品や楽曲の芯として度々現れるため、今更感もありますが、幾つか引用していこうと思います。
”いつか見えた優しさはもうない 一人踏み出す足だけ見てる”
-Farewell Song
”一人で僕らは歩けるか 誰もいなくなっても それでも”
-Life like a melody
”ここからは一冊しか持っていけないよ それでよかったのかい?”
-Little Busters!
”いつか人は一人になって 思い出の中に生きてくだけ”
-Brave Song
上記はゲームやアニメの楽曲であり、特に恋愛ゲームであればパートナー等と(いろいろな形での)絆を結ぶのが通例ですから、様々な形でこの「ひとり」は回収される(歌詞の別の部分や、アンサーソングなどで)のですが、前述のとおり、パートナーが用意されるパターンと、パートナーは過去の人になってしまうパターンとがあります。というか、麻枝氏のシナリオはずっと「別れ」がメインモチーフで有り続けて(今も)いたので、KANONの真琴シナリオも、Airの観鈴シナリオも、CLANNADの渚シナリオも、智代アフターのメインシナリオもずっと別れの話でした。
批判的な感想には常に「キャラを殺して泣かせるやつは三流」みたいな意見がありましたし、一方で、ちゃんと別れたあと再開するパターンも、KANONの印象を引きずったオタクたちから「何かあるとすぐ奇跡で復活して安易」みたいなことも言われていました。(まあ”悲劇的な別れ→奇跡的な再開”がメイン構造なので、そういう捉え方もある程度妥当だったりしたのですが、今考えれば「ケーキっていつもクリームと小麦の生地だよね」みたいな話で、そんならまんじゅうでも食えば、ぐらいの話だったような気もします。余談。)
これが少し雰囲気が変わったのが Little Busters! でして、これは本編自体も明るい青春モノ(→後々シリアスになる、で今の麻枝氏の基本フォーマットが完成した作品)だったのですが、メインシナリオのラストはやっぱり別れの展開だったのを、他のライターさんの強い意志で、多少都合が良くても再開の物語にするということになったそうです。
麻枝氏の描きたかったものは、上記の歌詞をちらっと見ただけでもわかると思いますが、別れから学び、強く踏み出す主人公像であったので(CLANNADもそう)、途中の構造が台無しになるということで最初は難色を示していたそうです。
以降、Angel Beats!では再開(の示唆)、Charlotでも再開、神様になった日は未視聴なのでわかりません、という所ですが、麻枝氏は基本のフォーマットの中でとにかく多様なパターンを試行錯誤してきたと言えるでしょう。
孤独、うまくいかないこと、悲劇的な展開、別れ、これらは世界の「過酷」という言葉でまとめられ、直面した人物は神を恨む。恨む対象が神でしかありえないような、悲劇の原因としての「敵」がはっきり特定できない物語を、麻枝氏は追求してきたように思います。(なんかKANONについてのインタビューかなんかでそんなこと言ってたような……)
物語の悲劇性を特定の対象への憎しみに転嫁させない、今でも重要な技法です。
(ちなみに、ヘブバンでは、悲劇の原因である「敵」は概ねキャンサーに集約されており、またキャンサーが意思疎通不可能な侵略的存在であることで、理不尽のかたまり=神の仕向けた過酷そのもの、という構図にまとめられています。)
これを打開する物語上の重要なツールはほとんど毎回個人の「強さ」で、神を恨みながらも強さを抱いて前進する、という理想的な人間像が麻枝氏の描く最大のドラマ要素であり続けてきました。
もちろん、その強さはただ最初から持ち合わせているわけではなくて、物語上の交流によって得た絆こそが強さの源であるわけです。
”溢れる涙は止まらずに 泣きながら描ききった もう誰もいない海 君と目指してた海”
-僕らの恋
”幾多の足跡たち 僕は追いかけ追い越す ばらばらに砕けても その向こう側へ”
-Human
”ひとりでもゆくよ 例え辛くても きみと見た夢は 必ず持ってくよ”
-一番の宝物
また同時に、過酷を強いた神(≒運命)に抗うさまを見せつける、ということがその強さの源になることもあります。
”弱さをかなぐり捨て たとえ化け物になろうとも帰ってやる”
-Bravely You
”見せてやる 本当は 強かったときのこと さあいくよ 歩き出す 坂の道を”
-時を刻む唄
”あちらは気ままに 活殺自在 意地見せろ”
-インドラ
この、神に抗うように前進する様子は、今イベストでパロディ的に反復されていて、AIユイナ曰く、AIは神を恨めないとのこと。これは前進するべき未来も、抗うべき運命もすでに目の前にはなく、虚空しかない(しかも、AIがここまで発展できたという事はどうやら人類はキャンサーとの戦いを克服したらしく、今の全ては自然のあるべき姿で、何より自分は生きている)ので、恨むべき対象もいよいよない、という状態の裏写しです。(そもそも神の糸引く理不尽が起きていない-麻枝氏の、悲劇の原因である対象を抽象化する取り組みから、ついに悲劇は起きていない、が、苦しみはあるという段階まで踏み出したとも読めるかもしれません)
ここで急に一般論なんですが、そもそも人間が壊れるパターンは大きく分けて「やることの負荷がデカすぎる」か「やることがなさすぎる」のどっちかです。
ヘブバンのキャラクターたちは皆、この前者の過酷に立ち向かっている訳で、それを必死に耐え抜きながら生きている。
一方でユイナAIは後者の苦しみに耐えているわけで、過酷の種類が今までと違うんですよね。 ここには大きな意味があるように見えます。
人が抗うのは未来を信じられるからで、しかも仲間がいて苦しみや喜びを分かち合えるから。今となりに仲間やパートナーがいなくても、築いてきた絆や思い出が、未来を、現在を信じさせてくれるからです。
AIユイナは未来を信じられなくなっていますし、仲間もいませんし、かつて仲間と交わした絆も持ちません。だから本当にからっぽで、持っているのはデータだけです。
ヘブバンは、今までの作品以上に、必死に生きることや、生活を続けることを強調しています。
ややブラック讃歌めいたヘブバン楽曲の歌詞を軽く引用します。
”(がむしゃらに踏ん張れがむしゃらに遮二無二)”
-シヴァ
”やるべきことは多いほうがいい 忙しいうちが華だ”
-ワルキューレの叙事詩
この2つはボス戦でかかる曲ですが、勇ましく、悲しい響きがありません。極端な歌詞ですがその意図は明確で、最も命滾る時、ギリギリで生命と身体の悲鳴を感じるときに最も虚無から離れている、ということだと思います。だから最も盛り上がる、一片たりとも空虚を感じてはいけない瞬間を演出するために、このような歌詞になっているのだと思います。
逆説的に言えば、ヘブバンの生命をかけた抗いは、常に空虚をはねのけるための戦いでもあります。これは物語構造的にも、前述の通りセラフ部隊員に関する重大な秘密が暴かれたときに、戦い続けられるかというテーマがまずあるわけで、AIユイナの苦悩である空虚は、ヘブバン世界の天秤の片方として、絶え間なく存在し続けているのです。
極限の空虚とは理不尽を起こす神さえない、何も起こらない無であって、この天秤の片方の重さがしっかりと描かれたことで、もう一方の皿に乗っているセラフ部隊員たちの命がけの戦いの、真実の重さを示唆するものであったと思うのです。
さて、最後の項目になります。次の項目では以上のことをまとめながら、物語がなぜこのような構造になったのかを、もう少し詳細に見ていこうと思います。
3「AI」
ここからは、個人的に昨今のAIについて色々と考えていた内容が含まれていて、厳密には考察というよりも感想に近いものになるとは思うのですが、さしあたって麻枝氏の最近の楽曲にAIという言葉が出てきたのは
”もう AIでも作れるでしょ 王道的なフルコース”
-Thank you for playing~あなたに出会えてよかった~
であり、それ以前にも、
”全部もうロボットでいいじゃん”
-Dance! Dance! Dance!
があったりします。
近年のAIの発展は凄まじく、週ごとに性能の良いAIが現れますし、仕事の場でも大々的に使われ始めています。数年中にはAGI(簡単に言えば、自分で考えていろんなことをやってくれるAI)が当たり前になるだろうという意見もあるほどです。
上記の歌詞から見られるAI観は、まだいくらか、単純なものを大量生産する機械のようなイメージですが、今回のイベストではより発展的な形でAIを捉えていると感じられました。なにより「創作性を発揮したいのにAI製みたいな量産品のほうが受けるしダルい」みたいな歌詞からは考えられないほど、AIの可能性を雄弁に(AIユイナの自画自賛ではありますが)語らせている様子を見ると、やはりこの数カ月間でAIに対するスタンスに変化があったと考えてもよいでしょう。(それも当然と思えるほど2024年のAIの進化は早く、2025年はそのペースをさらに上回ると言われています)
おそらくですが、「AIは人間を代替できない」から「AIは人間を代替しうる」へと認識の軸足を移しており、そこからやや古典SF的な発想ではあるものの人類を継ぐものとしてのAIが設定されています。
しかし、そこまで到達すると当然、「AIと人間の違い」を考えないままでは居られないでしょう。それに関して、以下少しずつ論じていこうと思います。
さて、麻枝作品において、過去にも架空世界とロボットの組み合わせには例があります。CLANNADの幻想世界を行くぼくはガラクタですし、Angel Beats! の死後の世界の管理者はプログラムでした。グラモフォンという曲においては少女とともに音楽を奏でる機械が出てきます。
”機械は叫んだ 自分を壊した 腕を残し鉄くずになる 遺った記憶でくみ上げられた ふたりの夢”
-グラモフォン
ここでは機械は絶望によって前進を辞め、過去の夢にのみ自らの最後の存在を託します。
麻枝氏の作品に出てくる架空世界には「前進を辞める」という極めて顕著な特徴があります。Little Busters! の世界もループしますし、今回のユイナAIシミュレーションも、ある点でループします。AngelBeats!の死後の世界も、生きることを知った人間から出ていく世界であって、中でループすることを選ぶとNPCになってしまいます。
これらのことから、麻枝氏の作品における架空世界は往々にして「前進のない世界」であり、それ故の安らぎや気楽さもある世界です。基本的に生きている人間が留まる場所ではないとされる一方で、生きていない存在が、その架空世界の重要な根幹であったりします。(リトバスメンバーの想いや、CLANNADにおける町の想い、など)
今回色々とイベストの感想を見ていた中で、「今までの世界が全部シミュレーションだったってこと?」という感想をちらほら見ました。これはかなり高い確率で「ありえない」と言い切れると思います。
上記のように架空世界にはかなりしっかりとした法則性があるので、それに照らすと今までの本編描写は、架空世界の法則とは真逆のものだとハッキリわかるからです。
ものすごく簡単に言ってしまうと「ヘブバンの世界は前進し続けようとしているから、架空世界ではない」ということなのですが、もう少し詳しく追ってみましょう。
架空世界がループし停滞する世界だとすれば、それに対置される「生きた世界」とも言える世界は、どんな世界なのでしょうか。単純に言えば、過酷でも容赦なくても前進し続ける世界です。前進し続けるとはどういうことでしょうか。厳密に言えば、どういう状態を私達は前進していると捉えるのでしょうか。
逆説的に言えば、ループしていない、以前の焼き直しでない変化の連続が、前進であると言えるでしょう。ここで言う前進は、改善し続けているという意味はあまり含みません。むしろ状況はひどくなるばかり、救いがどんどんなくなっていく中での綱渡り、それがヘブバンの基本的な前進についてのイメージです。
これは前述の虚無に対して真反対の世界観であることは論を待たないと思いますし、そのような苛烈な世界観は、ゲームをプレイした方なら色々なシーンで実感されてきたと思います。
この線路はどこへ続くんだろ 天国? 地獄? どっちみち死ぬ運命
-Come on baby!
また、ヘブバンのゲーム構造は、様々な点から見てこの「変化」を重視して作られています。そして、それを複層的に積み上げ、ときに衝突させることで「同じところに戻らない」ことに注意を払って作られています。
「あってもなくても変わらない話」を積み上げるタイプのコンテンツは、新規の人が入りやすかったり、長く自分の好きな印象に浸り続けることができるなどのメリットもありますが、ヘブバンはそれらをかなぐり捨てて「変化し続ける」キャラクターと物語を選択し続けています。
それは本編だけに限った話ではなく、各イベントストーリーは勿論のこと、交流やメモリーストーリーにおける変化が、後々の関係性に影響したり、幕間のアンサンブルキャラの会話にまで執拗に小ネタとしてねじ込んであるあたり、意図的な演出であることは明らかです。
さらに言えば、強い誘導があるわけではありませんが、新規のユーザーでも手順を踏めば、物語のすべての要素にアクセスできるようになっていますし(各スタイルの固有ストーリー(メモリーストーリー)も未所持で閲覧できる)、後から見返しても意味不明にならないように可能な限り気を使ってある印象で、インターフェース設計の時点でプレイヤーが物語と併走できるよう強く意識されていると感じます。
ヘブバンのシナリオの特徴は積み重ねで、本編にもループ的な要素がないわけではない、というよりもむしろ、ループ的な構造は頻繁に出てきます。セラフ部隊員はルーティーンで生活していますし、重要な展開や回想が細切れで展開されることもよくあります。しかし、それらは架空世界のループとは違って、少しずつの変化を積み重ねることでたしかに変わっていきます。
一本道のシナリオでどんどん話が進んでいくタイプの物語とは、また意図する所が違います。運命に翻弄され怒涛の速さで移り変わっていくのではなく、一進一退の攻防の中でじわじわと進んでいく、その中でキャクターひとりひとりに、運命(神)が定めた役割以外の存在のあり様が許される余地があるのです。
そして、そこで生まれた「運命的役割以外の自分たち」が生み出した「変化」がすこしずつ積み重なって、やがて運命を形成していく。この逆転的な方法によって、与えられた運命を脱して、運命を自分たちの手に入れる、それこそがヘブバンの苦しくも絶え間ない生きることに対しての希望であり、前進という態度なのです。
さらに、過酷な世界のストレスを緩和する意味でも、ルーティーンを意識させる意味でも、重点的に描かれているのが「生活」です。とくに、キャラクターたちが生きている、生々しい存在であると感じさせる要素として「食事」「風呂」「睡眠」が物語の上でかなりのウェイトを占めています。
曲の中にも、前進につながる絆を得るような相手は、肉体を持ち、ともに生活を送れる実体的存在である・あったことが度々示唆されます。
”ご褒美によくできましたって頭を撫でてよ 眠るまで”
-陽のさす向こうへ
”朝が来てタイを締める ふたり並んで”
-死にゆく季節でぼくは
”同じ息を吸って たまにふざけあって そんな奇跡をまた選ぶ”
-起死廻生
また全編フルボイスであることも、そのキャラクターが「今生きてそこにいる」ことの印象の強化につながっています。
これらのことを踏まえると、今作のAIユイナが特殊なキャラクターであることはもはや説明の必要がないと思います。
繰り返しになりますが、ループにはまり存在するしか方法のないAIユイナは、誰かと絆を結ぶことはもうできませんし、進むべき未来もありません。(食事もあんまり食べないみたいなこと言ってましたね)。空虚と紙一重の架空世界で、与えられた運命の虜となって、息継ぎをしながら沈む時を待っている…実際に機械であるという事実以上に、その存在のあり様が、生きていない存在なのですが、このような役割を「生の担当」であるセラフ部隊員にやらせることなどはありえないと、ご理解いただけたのではないでしょうか。
”悪魔に憑かれて 闇に飲まれても ただ生きるんだ 前を向くんだ それだけが取り柄だから”
-Burn my soul
さて、以上のことから、ヘブバンでは「AIは人間を代替可能な能力を持つが、絆を結び得ないものである以上は人間的に生きる存在であるとは言えない」
という所が現時点の着地点になっているものと思われます。(勿論これは自分の分析における位置づけであって、制作側がそのように意識していると断言するものではありません)
一方で、虎徹丸やKETSUなど、キャラクターたちと絆を結びつつあるAIたちもいるので、それらが今後どのような展開を見せるのか、まだまだ楽しみと言ってよいでしょう。
・そしてヘブンバーンズレッドとは
ここまで色々と話をしてきましたが、ここからさらにもう一段、踏み込んだ話をしたいと思います。
以降は完全に僕の印象の話になりますので、話半分に、まだ読み飽きていない方は聞いて下さい。
以上で見てきたように、ヘブンバンの世界はかなり明確な法則性を持ち、それに基づいて構築されている事がわかると思いますが、なぜこのようなことになっているのでしょうか。
個人の意見としては、麻枝氏が以前から抱えていたが、規模的に実現不可能だった世界観を現実に出現させるためであろうと考えます。麻枝氏の世界観は、小出しの作品として現れてはいたものの、それらの要素を法則性が見いだせるレベルにまでまとめ上げたのがヘブバンであるように見えます。
創作されたコンテンツとは常に前述の、架空世界の虚無と隣り合わせです。物語が終わってしまえば、今までの夢は消えてしまう。
その事実に対して、麻枝氏の「喪っても、絆を胸に強く踏み出す態度」をメインモチーフとしたエンディング曲が添えられてきました。夢は終わった。強く踏み出せとプレイヤーに語りかける。
けれど、そうと分かっていながら、また自ら消えてしまう夢を書き、酔わせ、目覚めとともにまたプレイヤーを荒野へと放つのは、本質的に矛盾を孕む態度です。
断続的な作品では、どうしてもそのジレンマから逃れられません。しかしなまじ才能があって、評価され、生活の手段ともなって、その行為を辞めるわけにもいかない。しかもメインテーマが大きく、結論的に見出だせてしまっているが故に、帰結点が同じにならざるを得ず、数を出せば出すほどマンネリを免れるための小手先の努力に囚われなければならない。
WFSの制作体制は、麻枝氏のテキストと音楽が編み出す世界を漏らさず統合、編纂し続けているように見えます。その事によって、麻枝准という作家が抱えているコスモロジー全体を受け止めることのできる作品をこの世界に現出させようとしており、そのためにどんどん制作規模が膨らんでいる模様です。(麻枝氏はいつも締切より早めにシナリオを提出してしているそうです)
今イベストも、全体から見て重要な一ピースであったと思いますし、本編への影響の感じ方は各人異なるところでしょうが、このイベストでヘブバン世界における骨組みというものは改めてはっきりしたと感じます(人魚は……チョットワカラナイ)
さて、麻枝氏のこれまでの作品の終点は多くの場合「別れ」「再開」のいずれかでした。CLANNADはやや修復の物語の予兆がありましたが、あれもまだ再開の範疇に入ると思いますし、なによりあのスケールの物語は以降作られることはありませんでした。
ヘブンバーンズレッドは修復の物語です。再生の物語と言ってもいいでしょう。2章では今までの麻枝作品らしい「別れ」がありました。3章以降は「空虚」との直面もありました。しかしここまでは今までの麻枝作品にもあったのです。
茅森月歌はそれらを抱えながらも、乗り越えようとし続けている。いかに進むか、何が必要か、何を喪って、何が遺ったのか。それを負いながら、世界の過酷に抗い、絆を結んで、飯を食ってシュワシュワシャワシャワして眠り、歌っている。
そして我々は、その姿をつぶさに追っている。
ONEにおける永遠の世界は、ヒロインとの絆によって現実へと戻る事のできる世界でした。CLANNADの幻想世界は、自分の娘を直視することで一旦幕を閉じます。AngelBeats! は現実を生きる意味を知ってみんな卒業していきました。
架空世界と現実の相克は、創作者にとって永遠の課題です。
ヘブバン根底にある、生きているキャラクター、繰り返されない世界、絆、ソシャゲというフォーマット、複層的なストーリーライン。そして今回語られた、架空世界の虚無。
これらの発見が今後より大きく、長く展開していき、いまだかつて見たことのない体験へと我々をいざなってくれること、そしていつか、この終わりの見えない相克にすら、一つの決着を見せてくれることを期待してしまうのは、過大な望みでしょうか? しかし、WFSと麻枝准は、その道を探すために絶えず抗い、前進し続けているように見えます。
続く夢を作らなければならない。
それも、空虚ではない、プレイヤーと共に続く夢を。
そしてプレイヤーに、たしかに「前に進む絆」を遺せる物語を作らねばならない。
振り返った時、「あの日々」として確かに遺る絆を。
それは人間の物語。プレイヤーとともに生きる人々の物語。
ヘブンバーンズレッドは運命を脱しようと足掻き、生きるキャラクターたちの物語であり、架空性の虚無と戦い続ける”あらゆる人間たち”の物語なのです。
以下、感想文。
なによりシチュエーションコメディとしてのクオリティがすごく高い。
AIユイナが舞い上がっている感情的裏打ちもあり、その結果現れる表現もなんだかバカバカしいのだが必死感もあって、哀れさもある。優れたコメディーというのは、常に感情的正当性に支えられながら、常軌を逸していく人々の姿であったりする。(感情的正当性を破壊して常軌を逸した行動に出るのはギャグ)
フランスの喜劇の殿堂、ラコメディ・フランセーズのDVDでモリエールの喜劇などを見ていても、(ラコメディ・フランセーズの演出が硬すぎるとの評判もあるが)芝居がきちんと成り立っている上で、おかしなことが起こっているというのがフランス式の正統喜劇らしい。(”ヴィーガンズハム”なんかも、フランスのナンセンスシチュエーションコメディで、PrimeVideoで見れたりする。外連味のあるコントに慣れていると派手さに欠けるが、じわじわとした面白さがある)
無論日本人である我々がそのような法則に従わなければならない道理は塵一つもないが、しかし上等の喜劇にはたしかに笑いと滋味と、つい人間や人生ついて考えてしまうような馥郁とした余韻がある。
普段の麻枝氏のシナリオの前編はだいたいギャグなので、正直こんなにしっかりしたコメディーが出てくることにめちゃくちゃ驚いた。何よりAIユイナがずっと真剣で、本気で月歌を愛していて、それ故にへんな行動を取り続ける様子は、愛おしく、悲しく、まさに恋愛喜劇の王道と言ってもいい。(妙に引き際を心得た紳士であるところにも上品さがあり、どんどん破綻していくドタバタとは一線を画す気持ちよさがある。こういう、紳士であるがゆえに苦悩するパターンもよく有り、視聴者もその一線を踏み越えないでほしいと思っていることもよくあるのだ)
もちろんただ愛しているのではないし、引き際を心得ている理由もある。それが巨大な虚空との対峙によって、読者にも痛いほどわかる。ゆえにおかしくて悲しい。
テンポ感も良く、AIユイナは偽物であるとしても、白河ユイナというキャラの持つ、多面的な(そしておそらく本人からは生まれないであろう)魅力を引き出すことにも成功している。
個人的には最初からずっと様子がおかしいので、何らかの意図があってそのような態度を取っているのか、それとも本人ではないか、どちらかだろうと思って読み進めていた。ネタバラシまで全く正体には気づかなかったので、うまくできているように感じた。
先述の長々とした考察を以前から考えていたのもあって、これは間違いなくAIユイナの一人遊びであると確信もできたし、混乱はまったくなかった。
ところで、ここまでの話から、AIユイナには一切の救いはないのだろうか?
実はそうでもないような気がする。
先述したように、AIがあそこまで発展するには、一定の人類の繁栄ないし維持が必要で、それを考えれば、人類は何かしらの形でキャンサーを克服したと言えそうだ。(それが判っちゃうのはどうなんだ、という気もしないではないが)
人類がどこまで宇宙のキャンサーに対処できたかはわからないが、ナービィたちも多少は平穏に暮らせるようになったのではないだろうか。そんなこんなで、宇宙に放り出されたAIユイナにだって、未来の可能性は0ではない。
はるか未来、人類が滅びた後、唯一の人類の痕跡として宇宙に浮かぶAIユイナは、ナービィたちの子孫に出会う。
そして、彼女の思い出の中で燦然と輝く茅森月歌という存在が語られる。
それはまさに伝説の終わりだ。人類の伝説であり、ナービィたちの伝説が語られる、茅森月歌は「She is Legend」として人類が滅んだ後にも遺る。もしかしたら、その歌たちも……
”きみを忘れてもぼくは連れてくよ 孤独の果て 虚数の海 時が止まってしまっても(中略)芽吹く生命に祝福あげる”
-Burn My Universe
てな所で終わるとなんだかきれいなのだが、ナービィたちには異次元の力を使う能力がある。そこで何かしらの不思議な力で、本編時間に干渉できるようになるとか、そんな可能性もある。(麻枝氏が語りENDを書くとしたら、多分語り切ったあと死ぬパターンになるだろうなと勝手に思ったりしたのだが、AIユイナは死なないので。あーでも、記憶の繰り返しの果に擦り切れて忘れてしまうが、愛した気持ちだけは覚えているパターンも麻枝的にはよくあるなあ……それで思い出すために本編時間に……いやこれ以上はやめとこう)
とにかくそうやって、「過去のかけら」を未来へと繋いで絆とし、主体的に前進するAIユイナが現れれば、その時おそらくAIユイナは人工物の軛を離れ、生きた存在となることができるだろう。
まあ上で散々述べたのだけれど、今作におけるAIユイナには、麻枝氏なりの生命観や、テーマ性から導かれるAI観が現れており、これが本編の中に位置づけられることによって、生命と非生命、機械と人間、そして生きることとは何かという問いに対する大きな指針が示されたものであったと思う。
その意味でも、今イベストは極めて重要な意味を持つシナリオだったし、AIの進歩の速さを見ていると、こういう話を今やっておかないと後々できなくなる可能性が結構あって、そういう意味でも、「3周年にふさわしいか」は相変わらずわからないんだけれど「今このタイミングでやっとく必要があった」のは間違いないだろうなあとは思うのでした。
いよいよもう終わりなのですが、もうちょっとだけ余談をします。
皆さんはヘブバン世界の法則性を一番体現しているキャラは誰だと思いますか?
人それぞれあると思いますが、自分はダントツで山脇・ボン・イヴァール大総統だと思っています。
本編でもかなり早い時期から出てきていますし、イベストでも良いお芝居いっぱいあって、優遇されてるなあって感じます。
何よりも、総統閣下はヘブバンの中でも一番「ループに近いキャラ」なんですよね。
ぶんちゃんとの架空の世界に興じることもできず、泣きながらそれに抗い続けている。二重の架空性に捕まっていて、それが同時に破綻した時どうなってしまうのか心配になるほどですが、絶対に折れないだろう、取り乱しても最後には歯をくいしばって立ち上がってくれるだろう、なんかそんな信頼感があります。
月歌はカリスマがあって、一番信頼しているユッキーも健常で、仲間や友達もたくさんいて……なんですけど、閣下は31C内では信頼が厚いですが、他部隊の人達と仲良くしてるとこあんま見たことないんですよね。コミュニケーション不器用なので。
それでも踏みとどまって眼の前のやるべきことをこなし続けている閣下は、どうも一人で進む強さで言えば月歌以上のものを持っているっぽい。
主人公が月歌である以上、この作品が目指す最も理想的な運命への抗い方は、沢山の人と関わることだ、ということにはなるんですが、それをやらないで、個人の強さで抗っていく、というかつての麻枝作品風の戦いをしているのが、総統閣下であらせられると思うわけです。
そんなわけで、閣下の物語が本編の序盤に出てきたことには、結構大きな意味があったのではないかと、今回考察をしながら感じていました。閣下はヘブバンにおけるサブ主人公であって、月歌が軽やかに飛び越えていくところを、現実に足を引っ張られながらそれでも前進し続ける、力不足でも抗うという泥臭く、最もリアルに生きているキャラであると思うわけです。
雲外鏡の話のときも、閣下の叫びが31C全体を引っ張っていく重要なきっかけでしたし、対ループ世界に対して特効持ってるなあって思います。
と、そこで5章中編では閣下のサバイバルがあるそうですね! まさにそういうことだと思います。ここで閣下がどのようなご活躍を披露なさるかによって、ループ世界特化の今回のイベストの位置づけもまた変わることでしょう。
インフィニティブレイカー山脇・ボン・イヴァール大総統閣下の奮闘を、今から楽しみにしています。
まとめ
”ユユ月みゃ”
の可能性が生まれたことに心から感謝いたします。
もうそういう漫画書きます。
ありがとう……
***
以降完全に個人的な余談です。テキストと演出をAIが行い、本当に生きているような応答をしてくれるシステムができたとしましょう。そのキャラクターとの会話の中で、生活をともにし、絆を育むことができるでしょうか?
できる、と自分は思います。たとえ別れたとしても、相手が機械でも、その絆を胸に強く生きることは、できると思います。
しかし、それによって得られる感覚は、人の作った枠組みから得られるものとは全く異なるでしょう。
それはなぜでしょうか。世界と、その中に生きるキャラクターの存在に対する意図が働いていないからです。
キャラクターの意図ではありません。
キャラクターに対する意図です。
それはつまりどういうことでしょうか。
この世界を愛するに足る理由を問うた時、キリスト者はこう言うでしょう。
「神がこの世界と人間をお造りになり、神は人間を愛しておられる。私はその愛を知るがゆえに、世界は愛するに足ると感じるのだ」
この者は、世界の意図を知っている。神の、人間への意図を知り、それを信じるに足るものと知ったとき、世界は愛に満ちたものになる。自分の存在が肯定され、世界と一つながりになり、恐れがなくなる。
現実における宗教はつまり、この現実の創造者を仮定し、その意思を受け取ることで、この世界すべてと相互に通じあえたような気持ちになれるものです。
身近な話で例えれば、怖い上司の本当の意図を知った時、なにかそのやり方がストンと腑に落ちて、急に自分なりの振る舞い方が理解できる。そういうことが、この世界全体に起こるのです。
この、神の存在は、創作物においてはあるいは作者ということになるのですが、作者が「こういう気持ちで作りました」という言葉によって理解されるものではありません。制作にかけられた手間や時間、演出の語ろうとするもの、描かれる世界の姿、展開する物語、それらが「かくあれ」という強い意図によって統合されたものである、という事実を浴びることによって、我々はその作品を信じ、感情や思想、体験、時間を預けようという気持ちになるのです。
ですから、長い余談はここで終わりますが、生きた世界をAIで作ったとしても、そこはきっと神なき世界であり、まるで無神論者にとってのこの現実世界と同じものになってしまうだけでしょう。
それはきっと、娯楽としてはさほど面白くはないものでしょう。
***
アマチュアのためのシナリオ試論:原稿
まず
2022年の初めに、光栄にもラジオ出演させていただく機会を頂きました。
本当は一時間ほどで終わるかと思っていたのですが、午後九時半から、終わったのは深夜一時前と、三時間ほどぶっ通しで喋るという気の狂った結果になってしまいました。大変楽しかったです。
タイムシフト機能がないので、配信は言いっ放しになった訳ですが、原稿をここに提示することで、内容の再確認に使ってもらえればと思い記事化しました。
実際は口頭で分かり易く言葉を補いながら喋ったため、完全な内容は、聞いてくださった方の特権という事で……
以下。
アマチュアのためのシナリオ試論
自己紹介
Magenic_Cafe代表 まフェです。
オリジナルの創作をやったりしていて、全国50万人の「ウマ娘のマンハッタンカフェがボクっこだったら正気を保てなかっただろう同盟」の一員であり、「お前のアニソンのプレイリスト、菅野よう子と澤野弘之ばっかりじゃね学会」の会員です。
よろしくお願いします。
前口上
これからシナリオについて話す
プロ向けのシナリオ論ではない
アマチュアとは
金を稼いでも、稼がなくても、作っても作らなくても自由 縛りがないのがアマチュア。
プロとは?
ある要望に対して、成果物を顧客の我慢できる程度の時間で提供して、報酬を得る振舞い。
某漫画家は顧客が待ってるからプロ漫画家で居られる。顧客に要望され、それにこたえるのがプロ。
プロ向けのシナリオ論、とは、顧客次第となるが、迅速に提供することが肝になる。
例えば、ある程度得意なジャンルが偏っていたとしても、使う側が選んでくるし、会議もあるので、その中で柔軟にものを生み出していく発想力とコミュニケーション力、構成力がものをいう……と思う。
SIROBAKOとか見ればいいんじゃないかな。
アマチュアは、そういった縛りはない。縛りがないからこそ、間違いがないので、楽だし、逆に答えがないから難しい。
迷う。そういう迷いを解消する手掛かりになればうれしい。
シナリオって何のためにあるの?
・・・★(人に内容を共有する為的な)
シナリオは、一人で全部わかってる以上要らない!
終 製作著作 せとらじ
は、冗談として、アマチュアの作品は超短編とかもあるので
実際にはシナリオと、物語と、シチュエーション設定がないまぜになりがち。
厳密なシナリオの技法について語れば、原稿用紙の使い方だとか、行は何段空けるだとか、何枚何分だという話に
今回はあくまでシナリオ試論ということで、物語論を含む内容になっている。
積極的にアマチュアが、シナリオをかくときに手助けになるような話をしたい
あまりにも原理的過ぎて、バカバカしい話になるかもしれない
具体的な技術論は後半に
シナリオには長さがある
長編、中編、短編、超短編
シナリオと演出の境目は(アマチュアにおいては)曖昧
映像そのものとシナリオ(テキスト)の、役割分担にも決まりがない
共通するシナリオ論の構築は可能か?
最小単位を追求してみる
シナリオとは何か?
シナリオは3行で良い?
物語の定義
「ある秩序が破られ、混沌を経て、再びまた秩序へと戻る経過」
その簡素化へ
「ある出来事が、始まって、終わる」
簡素化の結果見えてくるテーゼ 物語の最小単位とは
「出来事が記述されていれば、シナリオである」
すなわち
「ある出来事の始まり、(経過)、終わり」
が記述されていれば、それは最小単位のシナリオと言ってよい
シナリオの最小単位は、前提状態+駆動状態+終了状態の3つの記述である。
また、前提状態と終了状態から、駆動状態が自明に導けるのであれば、記述は前提状態と終了状態の2行で済む場合もある。
どんなに拙いシナリオでも、短くとも、シナリオを名乗ってもいい
尻切れトンボでも、片付いた所までを見れば、(出来はともかく)シナリオと言える。
とにかく誰でも、シナリオは書くことができる。
なお、5W1Hは、出来事の前提状態と駆動状態の記述法である。あるいはある状態の記述。一枚絵を描くときでも使える。
ここには終了状態が含まれておらず、伝聞には適しているが、物語の記述としては不完全な部分があると考える。
(例えば、時津風がアーボックに締め付けられる、と言うテーゼはある状態を示している。これが「もう五年ほど前の話だが、時津風がトキワの森を通り過ぎたとき、突然出てきたアーボックに絡みつかれ、そのまま丸呑みにされてしまった。そのアーボックは今でもそこに居るらしい」となると、お話になる)
使いやすい方を使えばよい。
シナリオじゃなくてプロットだって?
きにするな! まあ詳述の差でしかない。
そもそもなぜ脚本が必要なのか
芝居の場合は役者に説明しなければならないし、セリフも必要
それらを相手に理解してもらうために書くもの。そのために必要なレベルの詳述は場合による。
だが、アマチュアでは役者を使うかわからないし、自分で済ませてしまうかもしれない。台詞がないかもしれないし、アニメなら芝居は全部自分でつけることになる。
そもそも舞台ですら、大筋のセリフの流れだけで、あとはアドリブと言う場合もある
うる星やつらビューティフルドリーマーのメガネの長セリフが全部アドリブ
それでも脚本
脚本内にも詳述される部分とされない部分がある。
なのでそこを厳密に分ける意味は正直あまり感じない
なぜこんなにも簡単な所から話を始めたのか?
アマチュアの創作は
何を作ってもいい
つまらないもの、下らないもの、どうしようもないもの、完結しないもの、人を傷つけるようなもの、何でも作る権利がある。
なぜなら、その出来事を3行記述しただけで、もはやそこにはシナリオが存在している。
たった3行の空想的記述は、誰にも止めることはできない。
その影響力については、ノストラダムスの大予言
「世紀末に恐怖の大王が顕れて世界が滅びる」という短いテーゼが猛威を振るった例がある。
なぜ自殺者まで出たこれが許されて、直近の個人の創作が叩かれるのか、考えてみるのもおもしろい。
ただし、お金を稼ぎたい、注目されたいなど、「表現が手段としての性格を帯びる」とき、その手段としての適切、不適切は問われることになる。芸術はしばしば目的ー手段の連続性を模索していると言ってもよい。
しかし、最適化されていないからと言って、それが間違いにはならない。
創作の到達範囲はときに作者の想定を超える。
一歩先のレベルへ
前提・駆動・終了の3つの状態を記述すれば、シナリオたりうる。
この構造を見れば、前提、駆動、終了のいずれにも詳述のバランスが崩れると手落ちが発生することが判る。
前提ばかり多くて駆動状態や終了状態で回収不足になるのは分かり易いが
駆動状態で現れた事象が、なぜ現れたのかの前提が足りない場合(ああ、そう言うのアリな世界観だったんだ)
途中まであったラインが終了時になかったことになってる(力尽き・放り投げ)
なぜかある出来事が物語の終了状態に存在しているなど(異次元ワープ・ジェロニモ分身(幽体離脱))
あくまでも、まとまりのある話を作る際にはこの三形態の情報を丁寧に結んでおくことが大事だ。
(別にまとまってなくてもそれはそれで面白いので良い。それらはしばしば想像の余地として愛される)
シナリオは、大きな3形態の詳述でも良いし、小さな三形態の積み重ねでも良い。
アニメーションの中割と送り書きのようなイメージ。上手く使い分ければよい。
シナリオの描くべきもの
シナリオはシンプルな記述でかまわない。だが、そこに記述される内容は、どのように選別されるべきだろうか?
ここからは、シナリオ論ではなく物語論になる。
単純化のために、歴史を振り返っていく。
物語のはじまり
大昔、人間には理解できない自然現象や、出来事を理解するために、人間は色々な想像で、理由付けを行った。
それが、物語のはじまりです。
……ウソだよね。あえて言うなら、それは宗教のはじまりや、神様のはじまり、あるいは作り物語のはじまりと言うべきであって、人間の想像力が実在しない存在を生み出すより前にも、人はモノを語ってたはずだ。(あるいは空想も”事実”として語っていた)
例えば、先史時代。ある男が話している。
「ここからまっすぐ進んで、向こうの三本の木を過ぎて大岩の方へ曲がると、急に崖になっている箇所があった。一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだったが、無事にこうして帰ってきた」
この中には沢山の情報が含まれている。(自分語りでは前提状態や終了状態はしばしば簡略化される)
こうした、出来事を言葉で伝えあうことが、より本来の物語のはじまりであっただろう。そして、話を盛ったり、ウソをついたり、あるいは空想を交えたりしながら、物語は発展していった。
その歴史的積み重ねのうちに「おもしろい話とつまんない話がある」と判ってくる。
人間には個人差があれど探求の本能があるから、好奇心や想像力を刺激される情報であるかどうか(既知であるか)、というポイントはすぐに思いつくだろう。
だが、もっともっと視聴者がのめりこむ部分があった。
娯楽の少ない時代に、この要素は人を熱中させ、中毒にするレベルの力を持っていたと思われる。
それが、感情移入と追体験である。(一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだった)
感情移入、とは何か
長い間、物語や劇作の重要事は「視聴者の感情を激しく揺さぶる」ことだった。
そのために最も有力な方法が、感情移入である。
視聴者が作中の出来事を”自分事”としてシンクロし、烈しい戦いや激動の恋愛を体験した気持ちになり、感情を満たす。
人間は感情の生き物。感情が動くと、それだけで充足感を得る事ができる。
だから、大概の話は「目新しい事物を出して興味を引き、わかりやすい恋愛などの話に落とし込む」構造になっている。(今でもそう)
ギリシア悲劇の時代。職業としての劇作家は、プロの演者とともに観客を魅了するため、その頭脳を最大限発揮した。
大衆を熱狂させたシステムは、カタルシス。アリストテレスが言ったらしいよ。★
観客の鬱屈を、劇中の感情移入を用いて高揚させ、悲劇的結末によってそれらを一気に崩壊させる。
歴史の中で、物語の娯楽的性格の分析と凝縮が行われた結果、ギリシアではすでに、感情移入と物語の効用が、政治的に利用されるまでになっていた。
しかし感情移入は、あくまでも「視聴者の感情を揺さぶる為の最強武器(人権環境)」
それ自体が目的ではない事に注意する必要があるし、感情移入できない作品はクソ、とか言うのは逆に恥ずかしい。
原価厨とかコスパ厨、環境構築に課金できない奴は論外とか言ってるやつに近い。
後半また言及する。
異化効果
娯楽が少ないうちには、感情移入で人の心をがっちりつかめばその作品は、「優れた娯楽」として、誰にも長く語られる名作で居られた。
しかし、システム化が進んだことで(あるいは社会が発展したことで)楽しめるけど何にも残らない娯楽作品が世の中にあふれるようになってきた。
物語は、人々を一時的に慰めたり勇気づけたりはするけれど、役には立たない。
だが、物語の効能は、感情移入だけではなかったのではないか。
ブレヒトと言う人が、異化効果という事を言い出した。叙事演劇を標榜した。
三文オペラでは、辛い展開の後、唐突なご都合主義のハッピーエンドで終わる。
そして最後の唄では
「ちょっとくらいは大目に見ろよ、世の中はあんまり寒いじゃないか、この世界の谷間には、嘆きの声が響き渡ってる」と歌う。(意訳)
視聴者は??? と思いながらも、その歌詞を意味を、劇場から出たときに知る。
そういえば、現実もひどいことばっかりだ、寒い世の中とはこの現実のことなんだ。嘆きの声を私たちは、聞いているようで聞き流していたのだ。そして、芝居と違ってこの世界には都合のいい救いなんてないんだ……
つまり、劇がただ感情を充足させておしまい、という消費のされ方をするのでなくて、この現実世界を捉えるための考えるきっかけを与えている。
作品を見る事で「新しい視点」を視聴者が手に入れる。これが異化効果。
ブレヒトは、第四の壁の提唱者でもあるらしい。★第四の壁って何? 第一~第三の壁は何?
実は、古い演劇は様々な要素を雑多に含んでいた。だが、時代とともにそれが洗練されると同時に形骸化していった、と、ブレヒトは考えたのだった
高畑勲はこういった理知的な劇要素をアニメーションに持ち込んだ。
火垂るの墓の過去のインタビューで、兄の振る舞いが自分勝手に思えるような時代が来ることを予言していたらしい
作品の方が、視聴者を図っているような、そういう視点を持っていた。
社会と作品との関係性を強く意識していた。
分析的に有名な二つの例を挙げたが、結局何がなされれば理想なのか
「人を感動させたい」「人を絶望させたい」「楽しませたい」→「人の感情を動かしたい」
「人に新しい物事の視方を提供したい」
目指すことは立派である。理想はそれぞれで良い。
だが、物語そのものの本質的価値は「人の感情を動かす事」にあるのか?
つまらない作品は、存在してはいけないのか?
商業では、あくまでも商業的な理由を外部要因として作品が生産されうる
つまらない作品にも、商業的価値が存在する
個人製作はどうか?
お金のためならばそれはそれでよい。また、自己充足的な作品づくりも一つの在り方だ。
だが、あくまで他者に発表するときに、その作品がなにを成し得れば、我々は満足と言うべきなのか
視聴者の受け止め方は指定できないし、作者の理想も様々。
古代の物語へと立ち返ってみよう。
「ここからまっすぐ進んで、向こうの三本の木を過ぎて大岩の方へ曲がると、急に崖になっている箇所があった。一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだったが、無事にこうして帰ってきた」
ここに含まれるのは、
地理情報、好奇心の刺激、感情移入、危険の指摘、自己の強さの誇示……
これによって感情移入も行われうるし、物語を追って聞くことで、現実の地理情報が塗り替えられ、そこからの連想で、現実に対しての新しいものの見方が提供されるかもしれない(異化効果)
話し手が無事帰ってきたことが称賛されるかもしれないし、逆に闘争心を掻き立てるかもしれない
洗練されていない物語は、様々な要素を最初から豊かに含んでいる。
プレーンな出来事の記述(叙述)でも、「発することによって、何か が伝わる」
「よう」と「ごきげんよう」 挨拶一つでもなにかが伝わる。声のトーンや言葉遣い。
極めて短いコミュニケーションでも成り立つこと
「発することで、何かが伝わる」物語表現は、人間にとって決して特別なことではない。
【物語は、「出来事の記述・叙述」で「何か」を伝えるという、ありふれたコミュニケーション行為の一つ】であり、重要なのは、
そこには表現の妥当性はあっても、そのやり取りによって表されるべき理想的な何かなどは、本質的には存在しないということ。
(挨拶によって表される理想的な何かとは???)
物語は、すべからくこれを表していなければならないとか、こういう要素がなければ物語とは言えないとか
××を成し得ている物語は理想的である、とかは、個人の理想像でしかない。
すべての前段階として、我々は何かが伝わる出来事を選んで、記述するところから始まる
そして、それは自分の好きに選んでよいし、その記述はどれだけ簡素でも良い(自分一人で作る場合は)
相手にどう受け止めてほしいか、という意識は、自分の理想に従って物語を演出するところから始まる
以上を原則論として
プレーンな物語
話をシナリオ論に戻そう。とにかく最低限のシナリオとは、
他者に何かを伝えるために、出来事を、前提・駆動・終了の三形態で記述したものである。
そして、それ以降の発展は全く自由で良い。
ただし、これではあくまでプレーンな記述形態でしかない。
ここからは、それを自分の造りたい形態や、伝えたい物の照準を絞るために、どのような技術があるかを考える。
先ほどまでのはプレーンなパンの話。
甘いと思わせたければあんパンを、昼食に食べてほしいと思えばサンドイッチを作るように、高度なシナリオは「出来事の記述」と言うパンを様々に味付けすることで成り立つ。
そして最終的には、映像や役者さんの演技と言ったメインディッシュや付け合わせ、ドリンクを添えて、出来の良いディナーないしランチに仕立て上げるのが、目的となる
このとき、シナリオはあくまで一つの要素であり
例えば映像美があまりに斬新でビビッドであれば、シナリオはむしろプレーンな方がよい場合もある
ベテランの役者さんのキャラクターの解釈が、シナリオの想定を超える場合もある
最終的に素敵な食事を提供することが必要なのであれば、その時のシナリオの立ち位置は折々変わる
シナリオに正解はないし、場合によっては途中で変化もするものだ
高度なシナリオ、すなわち方向性を持ったシナリオを描く、という事は
最終的な出来まで見通してシナリオの立ち位置を決めるという事でもある
アマチュアの場合は、他の料理もみんな自前で揃えていくことになる
最終的に作り過ぎで胸焼けする料理がテーブルから溢れんばかりに乗っている
そういうのもアマチュアの醍醐味だ
パン自体は向こうが透けるくらいうっすい食パンなのに、一緒に出てきたスープがとんでもなくうまい。これも面白い(孤独のグルメドラマ版)
アンバランスな面白さは、アマチュアの特権。恐れる必要はない。
もちろんプロのようなまとまったコスパの良い食事を提供したいのなら、勉強することだ
プロの用意した食事を、料理ごとに分析してみよう。
説明はどうやって行っている? 台詞の分量は? 間や演技は何を語る? キャラクターの分配は?
劇場版CLANNAD とTV版
劇場版ガルパン 劇場版まどマギ反逆の物語
もちろん想像力を発揮しながら、テキストをかくのが一番の練習になるが、
絵が浮かびにくく、努力が好きなタイプの方は、あるお気に入りのシーンを言葉で分解して、文章化し、どこまで言葉で書けばこのシーンを構築できるか、感覚をつかむのもよい
そして、自分がどんなディナーに客を招待したいか、それを見通して、料理をそろえていく。
さて、テーブルの仕上がりを意識するとなったら、ここからは演出や、映像表現、芝居、それらを考えながらシナリオを描くことになる
なので、ここからの話は厳密なシナリオ論ではない。特に演出と深くかかわる部分がある
言葉のリズム
シナリオは言葉で書かれる。しかし、ストーリーボードという手法もある。
どちらがよいかは個人で選べばよい。ここでは主にセリフの書き方について話す。
個人的な経験から言えば、シナリオ先行で描くと、細かい指示内容や、思想的な一貫性、厳密な伏線などは台詞によって補間しやすく、まとまったかっちりとした、いわゆる立派なシナリオになる。
また、強い感情の込められた文章は、長く律動感があり、パワフルに響く。
いわゆる名ゼリフは、こういった長いセリフに従った、感情の高ぶりから生まれる事がままある。
視聴者にとっても長ゼリフは、共感を寄せていく段階が丁寧にあるので、感動しやすい。
が、一方で、一文が長くなりやすく、説明台詞や長セリフを演出で誤魔化さなければならない場面が頻出しがち。
映像をどう流して行くかを常に考えなければ、退屈な画面の連続になりかねない。
せっかくの感動のシーンまで、観客がついてきてくれなければどうしようもない。
シナリオを描き上げてから、映像にするまでに一旦それを解体する必要を感じる事が多い。
演出に関しては、出崎統・新房昭之・新海誠などが参考になる
一方で、ストーリーボード先行で書く場合、セリフは短く、画面と連動した躍動感を得て、ぽんぽんと進む軽快なリズム感を得る。
また、長ゼリフでメリハリをつけやすくなり、映像全体の流れに大きく関与する。
一方で、説明不足になりやすく、感情の流れに十分な補間がなければ、観客を置き去りにした唐突なセリフが飛び出す。
また、絵を描いたり、頭に浮かべられないと前に進めない、という問題もある。
なので、一度ストーリーボード先行を試してみて、言葉のリズム感を掴んだのち、流れの必要な部分でその感覚を用いるハイブリッドな用法がよいと思う。
高畑勲・富野由悠季・宮崎駿などが参考になる
例文1
プレーン
●「敵を補足しましたが、相手はまだ私たちに気づいていません。戦闘には弾薬が足りないため、迂回してから目的地に向かって北上します」
★「悔しい、この船が万全なら負けない相手だった」
長ゼリフ
●「1時方向距離230、敵の追撃部隊は我々にまだ気づいていないものと思われます。これより航路を反転し、迂回路を取って再び北上します。現在の魚雷装弾数では、会敵の際、生存率が極めて低いと考えられるため、退避を優先します」
★「残念だな。この船が本来の性能を発揮できる状態なら、奴らを翻弄できたのだが」
短いセリフ
●「敵は?」
★「まだ距離あります、230」
●「弾は?」
★「残弾2発」
●「チクショウ! まともにやり合えば負けない相手だ!」
★「迂回して北上します」
●「大丈夫なんだろうな」
★「まだ気づかれていませんよ、上手くやります」
例文2
プレーン
●「何を怒っているんだ?」
★「ユーベンスという名の友人に裏切られて、俺は怒っているんだ」
長ゼリフ
●「まったくわからないな。君がそれほどまでに怒って見せるなんて、少し取り乱し過ぎじゃないか。一体何があったんだ」
★「ああ、君なら分かってくれるだろう。そうとも、君以外の連中は全くわからずやだ。知っているだろうユーベンスのことを。僕の友達だ……いや、友達だった。大切なね。だが彼は、僕の心からの親切をフイにしたばかりか、その後ろ足で泥までかけて見せた。全く! 邪悪というのはああ言う奴のことを言うんだ、恩知らずだよ。僕がどれだけ彼のことを心配していたか……赦せない……許せないな!」
短いセリフ
●「どうした? 震えてるぜ」
★「赦せないのさ」
●「何が」
★「ユーベンスが俺を裏切ったんだよ!」
例文3
●「世界の終りだ、もう誰も助からない」
★「大丈夫です、信じましょう。愛がみんなを救うでしょう」
長ゼリフ
●「見ろよ……空が黒雲に覆われて真っ暗だ。太陽が燃え尽きるんだ……この地球上にいるものはみな等しく滅び去る運命なんだよ……!」
★「……それでも、私は信じてみたいと思います。この地球が私たちの母なる星であることを。そして、その魂が私たちを救い給うことを……それはこの星の誰にも等しく降り注ぐ施し……そして、私たちもまた、その慈しみにみたされて育った、この星の全ての子供たちであることを……信じて、祈りを一つにすることで、私たちにもその力がある事を、私たちが大いなる母の力を受け継いでいることを、今こそ示しましょう!」
短いセリフ
●「クソオオッ! 俺が仇を討つ!」
▲「よせ! ……もう無駄だ……」
■「……終わりだあ……」
★「……信じましょう」
●「信じるって! 今更何を!」
★「……まだ聞こえる……鼓動の音……勇者様!」
ドラマを超簡単に作る方法
ドラマとは?
高橋いさを 「葛藤である」
木下順二「天命と人間が対峙した瞬間」
単純化すれば、「対立、対峙はドラマの芽である」
短いシナリオレベルでも、とにかく対立させてみる
●「きっと私は、ここで脱落するって決まってたんだよ」
★「……うん……」
●「きっと私は、ここで脱落するって決まってたんだよ」
★「……そんなことないんじゃない?」
●「取舵一杯っ!」
★「いーや、右だね!」
●「なんだとっ!?」
言葉の上であっても反発、対立には理由がある。
理由が、キャラクターとともに対立という形でぱっと光が当たる。
そのキャラクターの思考や、関係性がぐっと深まって見える。
凸凹コンビがおもしろいのは、対立しながら、お互いの深い所をさらけ出すからだ。
ずっと自己紹介をしてるようなもの。
また、感情のボルテージが上がりやすく、展開的にも切り返す感じがあって人を驚かせる。
流すところとのメリハリをつけて使う。
感情移入の作り方
そもそも、感情移入っていうけど、だれの感情が何にどこまで入ることを言うのか?
よりもいのクライマックス、泣くけれども、それは、キャラクターが哀れでいじらしいと感じるからだ。
別に自分事と感じた訳ではない。でも、それも感情移入だろう。
自分は成人男性として、想像力で以てその物語の中に立ち、キャラクターを後ろで見守るような心持である
だが、キャラクターと同じくらいの年齢の子供なら、物語中の自分の立ち位置は変わるだろう
もっと小さければ、なぜ自分よりも大人であるお姉さんが泣くのか、仕組みも分からないであろう
母を亡くした友人と、自分とで、移入する対象も違う。
友人はその出来事によって、自分がその体験をしたように共感するだろう。
この共感する、と言う言葉も怪しい。何となくわかる、と言うところから、まったく同じ感覚を幻覚するまである。
感情の流れを破綻させずに伝える、という事と、感情移入は峻別されるようだけれど、単なる説明にも感情移入は発生する
なんならキャラクターのなんの意図もないような一言が、急に胸に迫ってしまうこともある
正直な話、感情移入とは、感情の流れを丁寧にたどれば、ある程度勝手に達成されるものである気がする
そして、実はその正体は
「あるキャラクターの心の開示の瞬間を、視聴者の記憶を刺激して想起できる形で表し、視聴者に、そのキャラクターを理解した、心に触れたと感じさせること」
なのではないか。
あるキャラクターに対して、理解することを許された。
相手と自分には心理的共通点がある。相手を自分の価値観で考えても大丈夫だという信頼・安心が、すでに読者の中にあり(キャラクターの行動が視聴者に理解できた積み重ねによる)その上でキャラクターの感情を暴露するような象徴的な出来事が起き、それが視聴者自身の経験と相似していた場合、自分の感情をもとに、心の中に仮想的に「キャラクターの感情」を作り出す。
造られたキャラクターの心理には、裏に実際の答えはない(Vtuberとかにはあるけど)が、事象と流れと、感情的符号で以て、その働きを引き起こさせるのだ。
だから、感情移入と言うよりは、「共鳴式心理創造」とでも言うべき方法論ではないのか。
お手軽感情移入の方法
何かを抱えているキャラを用意し、作中その抱えているものを小出しにする
この時、キャラクターの目的や行動に整合性を持たせ、このキャラクターの行動や思考がある程度わかる、と言うところまで持っていく。
キャラクターにとって重要と思える象徴的な出来事を起こし、それによってキャラクターの心理を開示する
この心理は、想定する視聴者の経験していそうなものにする
これによって視聴者の経験をもとに、視聴者の心の中に「キャラクターの感情」が作られる。
目的学園の生徒たち
キャラクターには目的を設定しましょう、ってどっかで読みませんでした?
誰かの目的を聞いた瞬間に、その行く末が気になりますもんね。
だからそれを読者にちゃんと開示しましょうって、聞いたことありません?
それを出てくるキャラみんなに適用すると、すっごく便利です。
あるキャラの目的が達成されたりされなかったり、葛藤したり喜んだり、これを複数キャラで次から次へと繰り返せば、面白さがずっと継続する。ちゃんと説明済みで順を追えば、感情移入もずっとできる。
だからできるだけ早い段階で、出来るだけ沢山のキャラの目的を設定して、それを説明しておきましょう……
迷ったり、無駄な動きをしたり、理解できない行動をしたりする、人間って結構無目的だ。あるいは無目的な中から、徐々に目的を見つけていく。ホントはそうだけど
でも、そんな無駄な描写をされてもね、今の読者って忙しいんですよ。
効率的な物語論、すごくたくさんあると思います。総動員して読者に喜んでもらいましょう。
でも待って? 本当にそれでいいの?
技法は世の中に腐るほどある。自分の提供したい物をイメージし、うまく使いこなすことが大事。
最後に アマチュアイズム
ここからは完全に主観的な話。
物語として語るべき何かなどないと言った。物語は器だ。物語と言うだけで何かが決まることはない。
外枠としての技術論や方法論や、固定観念があるだけだ。
無論、その外枠を組み合わせて、出来の良い作品を仕上げて人の称賛を得るのも(やれるなら)悪いことではない。
パズルでお金が貰えるなら、何よりと言う人もあるだろう。
それは否定しないし、そうやってつくられたものにだって外部的には価値があり、時には人を救いさえするだろう。
必死にやるから偉いなんてこともない。
創作しなくても死なないし、ゲームも漫画も、アニメも小説も、一生読み切れないほどあふれている。
車や釣り、スポーツと言った娯楽もある。恋愛や家庭に生きがいを見出す人もいる。
金を稼ぐという行為に没頭する人もいる。
自分の創作はそう言うもののうちの一つだろうか? 自分はなぜ創作をやるのか良く問うてみるといい。
技術に優れ、なまじ人の騒ぐものを作れてしまい、じぶんが何をやりたいのか、本質的に何を考えているのかを見極める前に消費され尽くしたり、飽きて止めてしまったりする人が沢山いる。
でも、それ自体は悲しいけど、悪いことでもない。変に入れ込めば狂いかねない。
創作という行為を通じて、誰かに何かを伝えたいという欲求があるか。
価値を届けたいという欲求があるか。
もしあるならば、技術や巧拙に囚われるのはもったいない。
始まりの欲求がどこにあれ、同じ物語を作る行為であり、外部的に見れば出来上がったものに差異はない。
そこに優劣を決められる人もいない。
ただ、作者だけが、その器に価値を注いだと知っている。抽象的な言葉なら、愛と言ってもいい。
そして、読者にそれを見つけてもらうのを待っている。
読者が、まるで古代の語りのように、目の前のだれかとの対話のように、物語を生々しく受け止める事ができたとき、愛を受け取った時、作者と読者は、極めて特殊な関係性で結ばれる。
そして、注ぐべき価値は無限に自分を振り返り、問い続ける事でしか、定まってこない。
長い長い時間がかかる。人生の状況やタイミングによって変わることもあるだろう。
それでいい。
アマチュアイズムはまさに、人生の瞬間瞬間に器に注がれた自分自身だ。
物語は自分から生まれる。そして、誰かに伝えられる。
どんなときでも、物語とは、出来事を語ることで何かを伝える、シンプルな行為であることを忘れずに
作品は出来上がった瞬間独り歩きし、後は数字でしか追えなくなったりする。
自分の喜びとして創作を続け、それによって自分を育て、自分の人生を救うために。
声が誰かに届くことを信じて叫び続けるしかない。
だけれど、焦ることはない。
人生は長く、振り返ればこれまでの自分がすでに後ろに豊かに実をつけているのだ。
そしてそれは、生きる限りずっと育っていく。
忘れず、それを見つめて、上手く摘み取って熟成させれば、創作は一生の楽しみになる。
創作の原初に立ち返って、勉強したり、快感に身をゆだねたりしながら、無理なく、自分の行きたいところまで行きましょう。
以上
XR創作大賞お疲れさまでした!
皆さんおはこんにちばんわ(絶滅危惧Ⅱ類(DD))
めちゃくちゃ久しぶりのブログ更新です。先日人生で初めて完結した漫画を描きました。それが意外と反応を頂きまして、うれしい限りです。
漫画を描きました。人生で一番反響貰ってます。ありがたい…… https://t.co/gW80klTygJ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2021年8月29日
本当は作品について連ツイしようと思ってたんですが、内容をまとめておこうと思います。
と深夜2時に書き始め、早朝書き終えて勢いツイートして寝て起きたら、意味不明の怪文書がPCに遺されてて泣いちゃったので、とりあえず要約を書いていこうと思います。要約だけ読めばOKです。
怪文書は最後の方に残しておくので、酔狂な人は読んでみてください。
ざっくり時系列作品解説です。
ただしほとんどが、作品投稿後に改めて考えたことです。
結果として、以下に続くのは「あのエンディングを自分で納得する為の後出しじゃんけん」です。
Fateに対するFateZeroみたいなもんです。将棋でいえば感想戦。とはいえ、何も考えないで漫画が描ける訳はないので、
最初から考えていたことを青で。
投稿後考え足した部分を赤で表示することにします。
何となくどういう骨組みであの漫画ができていたかを読み取ってもらえるかなと思います。
そして、この時系列は完全に私的なもので、皆さんの読み取ったものが正解であることを強調しておきたいと思います。赤の部分は完全に後付けなので、作品から読み取れる訳もないし、それに基づく解釈などは、妄想以外の何物でもありません。ただ、どうしても判らなかったな、判りたかったな、という方のために、解釈の一つとして提示するものです。
前置きが長くなりました。
舞台は近未来の日本です
この時代では人口減少と労働の自動化で、生身の人間と逢わなくてもある程度暮らせます。
しかし政府としては、もっと軽率に出逢ってまぐわってもらわないと困る。
民間企業もその方針に従い、マッチングシステムの開発が加速します。
結果、ARやVRも含めて、ネット全体が出会い系サイトみたいになり、UIもシステムもどんどん俗っぽくなります。
若い人たちはそのダサさに辟易し、LiLy.sのような清潔感やら透明感やらが流行ります。
アレクサンドリア主義者みたいな連中も出てきます。
一方で、マッチングシステムの高度化で、社会全体でクラスタ化が進行し、各クラスタは急速にタコツボ化していきます。
しかし、システムが上手いことクラスタを采配するため、大きなトラブルは起きずに、事態は深化していきます。
そのうち、クラスタ内のメンバーが各々自分勝手に振舞っても、不都合が出るどころか上手い事やれてしまうような、極まったクラスタが出現します。
ここに至って、ただのお題目だった「全人格主義」が、限定的ながら成立することになりました。
極まったクラスタのメンバーは「やりたいこと(自意識)」と「やるべきこと(社会的役割)」が、完全に融合しています。
これを、人間のカンペキな状態とみなし、次世代の幸福の形だと喧伝し始める勢力が顕れます。
そして、カンペキを求めることが、新しい世代の処世術であると言いふらします
無論このカンペキは、マッチングシステムの利用を前提とする為、システムの管理者たちは支持します。
結果、プラットフォーム全体で、カンペキ(全人格主義の実現)がロマンの対象として受け入れられるようになります。
カンペキなクラスタに所属すればカンペキな自分になれる、という発想から、カンペキなクラスタになるよう努力することが、カンペキな自分になること、みたいな言説が割と一般化します。
カンペキな自己=カンペキなクラスタ=カンペキなメンバー、努力とシステムの相乗効果で、もともとタコツボ化していたクラスタ内で、自他+環境の境界がどんどん曖昧になって行きます。
自意識と他者との相克がほとんど意識されなくなり、最適化が進めば進むほど、快適に、クラスタと自己は同一化していきます。
また同時に、個人の領域を超えて自己肯定感が強化されていきます。
とまあ、そういうことが起こって20年程経ちました。
若い世代はカンペキの輝きを当然のものと思っています。
一方30代以上の世代では、「カンペキ」に疑念を持っている人も少なくありません。コミュニケーション能力の自殺的退廃であると言う人もいます。
しかし若者の間では「より馴染む人と消耗せず暮らす事が人口減少社会で生産性を効率化させる手段である」という言説が支持されており、世代間には大きな断絶が横たわっています。
さて、MZも主人公も、当然カンペキに憧れていました。
一方で、エンジニアはそうでもありません。彼にとってはネットよりも実在こそが重要でしたし、そもそも彼は40代で、クラスタの概念とかもなんかちょっと没頭はできないかな、みたいな。
MZは死を悟った時、カンペキではないけれど楽しい自分のクラスタを壊さないように自分の死を隠します。
自分とクラスタとがほとんど同価値になっているため、天使となっても自分が所属するクラスタが楽しく存続すれば、自分自身の存在も楽しく存続する、という感覚があったのです。
もちろん、エンジニアにはそこまでの切実さは理解しがたいものでした
MZはエンジニアを信頼してリングを渡しますが、結果としては遺志を裏切られる形になります。
主人公はMZへの不信=クラスタへの不信を抱いて墓参りに向かいます
しかし、エンジニアの激重感情によりMZは完全に死んだことが確定してしまいました。
また、現実の土着的クラスタとネット上のクラスタが、何の配慮もなく悪魔合体された様子に、主人公はだいぶショックを受けます。
そこに在ったのは、MZのアイデンティティを粉砕し、独占してしまう強烈な他者=エンジニア=エゴでした。
主人公は直感的にそのエゴを拒否し、同時に他者のエゴを強烈に否定する「自らのエゴ」に気づきます。
疎外された自己。そして他者を否定する自己。激しい自己のうめき声に、主人公は当惑します。
カンペキを求めるクラスタは内的に内的に、全人格主義を実現しようと努力しますが、そういうノリが合わない人もいます。
そういう人達は、ペルソナを駆使しながら腰掛的にクラスタを放浪します。
安らぎなき流浪の民が用いるテクニックが「表現評価主義」です。
同質化した集団を渡り歩きながら、どこにも所属せず自己を保ち、他者と世界と自己とを、相対して捉える世界観です。
疎外された自己の目覚め、対置する他者、事実としてのみ残るかつての友人であった死者。
この相克の中で、主人公は世界が相対的であることを受け入れなければならなくなりました。
そしてそんな彼の下に舞い降りたのが、表現評価主義と架空との交錯点に生まれた火花、つまりは勝手な妄想の産物であるMZの幻影でした。
現実、他者、世界、そのすべてに判らないことがあることを認め、あるいはそれを埋めようとする自らの妄想を認める。
それが表現評価主義です。
主人公は最後に、自らのエゴを自覚し、妄想に逃避する自分を自覚することで、相対世界の虚空を進んでいく術を手に入れたのでした。
おわり
…
……
そうだね、サルトルだね!
…要約なのにずいぶん長くなってしまいました。なんだか自分でも書いててよく判らなくなってきました。
正直、僕はこの漫画を描いたときに、終わり方に納得できていませんでした。単に主人公が、現実もネットも他者なんて全部妄想や! と現実逃避して終わるように見えたからです。(そして本来的にはそのとおりです)
ですが、意外にもたくさんの反響をいただき、少し考え込んでしまいました。
何が、皆さんの琴線に触れたのだろう?
もしかしたら作中の別のところが重要で、ラストはまあお目こぼし、というような感覚だったのでしょうか?
こればっかりはわかりません。とても知りたいです。
とにかく、ラストに何かしらの説得力を持たせなければ気が済みませんでした。
僕なりの解釈が必要でした。
その結果考え出されたのが上記の概要です。
振り返ってみれば、マイクロ共同体主義と新左翼の類似性やら、実存主義の勉強し直しと疎外された自己やら、そもそもがバーチャル美少女シンギュラリティを読んだ後感想書くために勉強した吉本隆明の共同幻想やら、なんやら。
物語は物語として、出来るだけ深入りしないと決めて描きましたが、解釈となると見えない連続性を自分の了見でつないでしまう。感想はまさにその人の知識領域以上の物にはならんです……
それはそれとして、ですが。
今回は本当に、自分が納得できていないものを出して、望外に反応を頂く、その結果改めて考える、と、表現がある種のコミュニケーションであることを実感した次第でした。やっぱり人に見せるのって大事やね。
色々感想を頂けた皆さん。そして、今回このような機会を用意してくださった運営の皆さん、そして、この作品の一番最初の動機になってくれたバーチャル美少女ねむちゃんに感謝を述べて、いったん幕を引こうと思います。
ありがとうございました。
以下、怪文書。概ね上記の概要を詳説したものです。
先日投稿した拙作「ネット友達の墓参り行ってきたレポ」ですが、望外の反応を頂きまして、ただただ圧倒されつつ大変うれしく思っております。
色々な感想を頂けた一方で「よく判らなかった」という声も散見しております、野暮かなあとは思いながら……何を所詮、アマチュアワークに過ぎないものが、なんだか立派になったと勘違いしてやがると正気を保って、作品を作る経緯と、構造や隠しネタ等全部話すことにしました。
なお、以下の内容は最初からすべて自分で考えたのでなく、投稿後いただいた感想を読んで、逆にそういう話だったのか、と自ら気づいた部分、そしてそれを踏まえて考え足した部分が(大量に)含まれています。
ゴタクは良いのでサクサク行きましょう。まずは作品のバックグラウンドです。ラストページで無理やり説明的に触れている部分もあるのですが、投稿後考えたことも含めて網羅すると、多分ほとんどこの構造が見えてる人はいないんじゃないだろうか。(というか見えてたらエスパーだ)
見えてた人は心の中でほくそえんでください。あるいはツイートなりコメントなりで表明してもらえるとうれしいです。
あなたが読み込んでくれたこと、あるいは、ぼくが表現として適切な情報提供ラインを攻められたということが判るからです。
前提として、ややこしい単語を定義しておきます。
「実在」:今回は人間の話なので生命機能に基づく肉体、およびそれに付随する社会的諸々です。現実存在のことですが、現実とは仮想とは、で定義合戦みたいになることもあるので、この単語を使います。
「存在」:そこに在る、ということ。定義的には自己や他者の認識領域で共通して何かしらが認知されてること。
まず、作中の世界は、近未来の日本を想定しています。
先進国では人口減少が進み、また労働の自動化とともに【作中の主人公のようにほとんど生身の人と接触しなくとも生活できる】ようになっています。
しかし、むしろ各国政府は少子化を喫緊課題として、人間同士の生身の出会いを奨励しています。そして、その重責を担っているのがインターネットです。
つまり、国家総動員出会い系時代です。
無論ネット接続のAR、VRシステムもその方向性に発展しており【ルバーブなんかはあんな下品なUIになっていて】一部の人間にはめちゃくちゃ不評です。それでもとにかく人と人とを出合わせ、少なくなった人流を適切に商業地区に誘導することが、この時代では極めて重要な意味を持つのです。そのために、ARナビゲートなどはどんどん、派手に、安易に、俗っぽくなっていきます。そして若者の間では、そのカウンターとしてのカルチャーが育ちつつあり、LiLy.sもそれを先導する一人です。
この世界では、人間関係でのストレスは現代に比べると希薄化しています。嫌な人とは会わなくて済む選択肢が増え、可処分時間は自分と気の合う人とだけ過ごすことが容易になっています。
その根幹にあるのが、民間企業がこぞって精度を高めようとしている「マッチングAI」です。
この作品はSFなので、マッチングAI万歳ではもちろん終わりません。いろんな問題が生じましたが、一応それでも人口減少を食い止めるという超重要課題の前に見逃されています。
大きな問題の一つが【過度な同質クラスタ化の進行】です。マッチングAIのユーザー体験における重点は、いかに不愉快な人間と出会わずに済むかに尽きます。当然同じような人間同士が引っ付くようになります。社会的分断はめちゃくちゃ進むのですが、先述の通り、実在空間で自分と別種の人間と逢わなくて済むので、あんまり問題が表面化しません。ネット上でクラスタ同士の不毛な思想戦争をやっている人もいますが、それももう何年も続いているので大半の人は飽きてそれぞれのクラスタに引きこもっています。
内向きになったクラスタ内では他のクラスタへの反発意識や自分たちのクラスタへの全体主義的帰属意識が熟成されます。そしてそれを、マッチングシステムの管理者たちは容認しています。管理者たちも民間企業なので「より精度の高いAIであるとアピールするために、人間側を単純化した方がいい」と気づいているからです。
当然【対人コミュニケーション能力が低下】します。結構致命的問題な気もしますが、その不和はAIがより最適なクラスタにやんわり分割、再統合を繰り返すことでほとんど表面化しません。
ここで、同質化したクラスタが、所属個人にもたらす絶対性について言及しておきましょう。
マッチングAIの最適化が常に行われるクラスタ内では、クラスタ内個人の「社会的役割」と「自意識」はほとんど意識されることなく分離することもありません。もとより自と他が同質の集団である上に、自分勝手に快感を追求していても、各役割を果たし集団が整うようにAIが調整する為です。
クラスタの中にいる限り、個人は全人格的に振舞い、かつ社会的存在として完全になることができます。これが、この時代における理想的なクラスタにおける個人の絶対性の顕現なのです。これを原始社会の「個と社会の未分化状態」になぞらえて「原始の安らぎ」と称します。
結果この時代の人間は、クラスタに耽溺、あるいはペルソナを使い分けながら渡り歩く、という基本的な社会観を育むことになりました。しかし、いくつかのクラスタを渡り歩けばすぐにわかりますが、同質性が高すぎる組織は往々に腐敗します。しかもどのクラスタに行っても大体同様な状況になっています。(クラスタを腰掛として、深入りしない主義の人達のクラスタもありますが、そこに所属しても自分の帰属意識はさして高まりません。「原始の安らぎ」を得られるクラスタを見つけられるか、あるいはそれを形成できるかが、この時代の人間関係の重要項目となっているのです)
そんな中で、グレーゾーンな人間関係を受け入れる余地がなくなり、社会思想も退廃します。結果、人間関係の捉え方が、耽溺コミュニケーション【全人格主義】と、刹那的ペルソナコミュニケーション【表現評価主義】に大きく分かれていくのです。
そんな状況において、商業主義的人格ネットワークはすでに破綻している、不完全なシステムが人間そのものを破壊していると言い出したのが【アレクサンドリア主義者】たちです。
彼らは思想集団ですが、財団を形成し、大図書館に相当するWEBサイトを中心に生息しています。そのサイトでは全ての人の発言は「一冊の本」として「誰かに読まれる」形式をとっており、基本的に一方通行です。また、発言の投稿から反映まで3日位かかり、リアルタイムコミュニケーションができないようになっています。
さて、そんな中で【鏡越しの実在】の問題が大きくなります。実在同士で出逢うことを前提に行動する「アウター」はまだましですが、ネット上のコミュニケーションを重視する「インナー」たちにとっては、鏡越しの実在は、いつでも彼らの安寧を破壊する不安要素です。今作の主人公も「インナー」に属すると言えるでしょう。
ちなみに、この状況が生み出されて20年ほどたっています。
主人公は20代半ばであり、彼にとってのコミュニケーションはほとんど前述のとおりです。
一方、エンジニアは40代前半です。彼はまだ社会がこんなになる前に人格の基礎形成を済ませており、ある程度他者への受容の素養があります。また、「原始の安らぎ」を進歩と捉える向きに疑念を抱く余地があります。
この世代間の意識の差は、極めて大きな分断として社会に横たわっています。
ここまでが、今作のバックグラウンドです。
さて、その上で、この作品が描いていた状況と、どういう思想性を表現することになったかを説いていきたいと思います。繰り返しになりますが、以下の内容は投稿後に考えたものが多分に含まれます。
身も蓋もないことを言ってしまえば、この作品の結論は「逃避」と言ってしまえるかもしれません。
主人公の不安は、単に友人の実在に対する不安を越え、自分が属するクラスタへの不信に発展しています。だから、疑いながらも確認しに行かざるを得ませんでした。世界に対して自分が相対であることは、この時代の人達にとっては大きな不安です。理想のクラスタでは、自分が部分要素として安定した絶対性を保てます。
しかし結果として彼は、自分の居場所の絶対性の崩壊に直面します。
主人公は【MZの実在に直面】し、自分がクラスタに於いて相対的存在である事を受け入れざるを得ませんでした。そして、その瞬間に【彼もまた天使になる】ことを受け入れたことになります。
主人公は、自分の自意識が固有のクラスタから外れ、相対的関係性の虚空に放り出されたことに気づきました。そしてそのとき、表現評価主義と架空との交錯点に生まれた火花、つまりは勝手な妄想の産物である【MZの幻影が彼の下に舞い降ります】。
最終的に主人公は、「他者から表現評価主義的に存在を認められるペルソナ≒バーチャル」こそ、インナーである彼自身の、あるいはMZも含めてすべての存在の在り処だと納得せざるを得なくなったのです。
この作品における主人公の到達点は、現在の我々から見れば「妄想への逃避」に過ぎません。実際、僕も投稿直後は「こんな終わり方で良いのだろうか」と悩んでいました。しかし色々な反響があり、彼には彼なりの納得する理由があったのではないかと考えていくうちに、彼は作中社会における「現実的成長」を経験したのだと思えてきました。あるいは、クラスタ主義から突如として相対的意識の自由の中に放り出された主人公の、目覚めと旅立ち……
我々の現在的な理解と、作中の表する意味、二つの落差が、彼の苦悩の潜在的な面白さの正体だったのかもしれません。
さて、ここで一つ、重要なネタバレをしておこうと思います。
実はエンジニアは「MZの遺志を無視して」勝手に墓のシステムを作り、クラスタのメンバーに墓参りの案内をしたのです。
(ここに関しては色々な解釈があった方が面白いと思いましたので、あえてこれが絶対と決めつける意図はないのですが、一応、作る側としてはそのつもりで描いたとお伝えしておきます。でも、皆さんの受け止めたものを一番大事にしてもらいたいです)
エンジニアの独白
【僕が死んでも、多分会えないから】
は
「僕が死んでも、勝手なことをしてしまったから、合わせる顔がないので会えない」
と言うつもりで描いたセリフです。
MZは自らの死を悟って【天使になることを選択しました】。つまりMZはMZとして、クラスタに存在し続けることを選択したのです。そして、その試みは成功しました。
しかし一方で、【エンジニアにリングを渡しています】。無論、このリングというのは結婚指輪を意識したアイテムで、貸与できる権限も極めて大きく、なまじの相手に渡すものではありません。
MZはあくまで個人的にエンジニアに自分の実在を晒したつもりでした。もちろん、自分の死後の対応を任せる部分はあったでしょうが、それはむしろ天使の自分をサポートしてくれることを期待したのではないでしょうか。
しかし【エンジニアは墓のシステムを作り】MZのアカウントを通じて、友人たちに案内を送ります。それはMZにとって、ネット上の自分を完全に殺される行為でもあり、またネット上と実在とで分かれていた所属クラスタを許可なく融合させる行為でもあります。
エンジニアはクラスタの重要性を、主人公やMZほどには理解していません。彼には実在という絶対的価値観が存在しており、だからこそ、お墓というきわめて実在的な存在に縋りつくことになりました。とはいえ、勝手なことをしている自覚もあり、それがエンジニアの迷いに現れています。
エンジニアは【多くの人に知ってもらうことで、自分の愛したMZの実在を確かなものにしようとしました】。感情的には否定しづらい部分が無きにしも非ずですが、倫理的問題は残ります。ちなみにMZの家族は同意しています。
ボイスチェンジャーも発展しきってるので、【主人公はエンジニアの正体は最後まで分からずじまい】でした。
正直な話、当初エンジニアは僕にとって、単なる物語上の役割キャラでしかありませんでした。しかし出来上がって見ると、案外しっかりと主人公と対比になっていました。
実在に拘り墓の前に留まるエンジニアと、妄想と知りながら進もうとする主人公。
あるいは、弔う事で愛する人を永遠に死者にするエンジニアと、空想によってその存在を胸の内に掬う主人公。
その対比が、この作品の面白さに繋がっているのかも知れないと感じました。
故人はどこに在るのか。あるいはもはや他者はどこに在るのか。社会が変わってしまえば、他者の在り処も変わってしまうのではないか……それがもしかしたら、この作品の一番SF的な問いなのかもしれません。
最後まで読んだ変な人に
おまけ豆知識
・仮想美少女シンギュラリティを読んだ感想を、小説形式にしようとアイデアを出していた、それがこの作品の一番最初です。
「リング」とネットの向こうの死、というモチーフは最初期から持ち越されています。一番最初期のネタでは、知り合いの死を通じて、仮想化された人格が神格化した「バーチャル美少女のはじまり」を訪ねる、というちょっとしたバーチャルワールド冒険ものだったのですが、直後にレディ・プレーヤー・ワンが公開されちゃったので、ハードルが爆上がりして挫けたんですよね……
・そもそも僕はV存在でもないし、VR機器も持ってないしで、こんな話書いちゃっていいのかなあ……って気持ちはいまだあります。
・漫画はSAIで描きました。正直漫画には向かないかもなあと思いながら、パース定規に助けられながら頑張りました。クリスタって良いのかな? 枠線引いたり吹き出しが楽だったりするらしいですね。とにかく漫画は難しいと実感しました……
・そもそも、あまり大きな、或いは誰も思いつかないような設定は思いつかないので、すでに予言されているテクノロジーをつるべ打ちにして、それを統一した世界として見せ、かつドラマで筋を通せばいいだろうと考えて描き始めました。
XR創作大賞のようなアイデア勝負のような賞にはどうかと思いましたが、まあ、そこは織り込み済みで。できないことはできないしね。
・MorICarの車輪は球で、超信地旋回や真横に移動することができます。なので、扉は片側だけが開く仕様です。シートベルトの構造が納得いってないんですよね。
・コンビニは実は無人店舗。
・ルバーブは一応覇権とってるトータルアプリという位置づけで考えています。
凧のパラドックス、パラドックスじゃなくねはその通りなんだけど、我々が表現物に対してその発信者を理解できると無意識に思っている(≒全人格主義)ことと表現評価主義の対置状態を表すいい語感がほかに思いつかんかったのよね。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2021年8月30日
ちなみにLiLy.sはなんて読んでもいいんですが、便宜上「リリース」と読んでいました。まさかライブ中にフォロワーを2万人もリリースするとは……(大汗
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2021年8月30日
こんなもんかなあ……
★みんなありがとー!
自分が内向的寅さんだった話
昔から何を考えているのかよく判らないと言われてきたが、赤の他人が何を考えているのか、判ったら不気味だろうとずっと思ってきた。たぶん他者に対する類型的理解にあてはまらなかったのだろうと考えてきたのだが、微妙な違和感がずっとあったのである。
今朝見た夢は、努力をして何かを成し遂げる夢だったように思う。自分は気持ちよく努力をする側で、そうできない誰かをもどかしく見ていたような気がする。
そうして目覚めて初めて、つまり努力できる人の視点に立って初めて
「貴方のふるまいは、努力している人たちに失礼だ」
と言う言葉の意味が芯から理解できた。(そのセリフを直接言われた事はないが、そう言いたげな遠慮がちな物言いには幾度も接してきた)
別にやる気を出してないとか、茶化しているとかではないのだ。話を真面目に聞き、言われた通りにやり、自分なりに改善点を見つけて修正する。だが、それがどうも周囲に比べて進度も成長度も遅い。何でだろうと思っていた。
できているらしい人は、あまりにも当たり前の事過ぎて、このギャップが理解できないらしい。
こっちも、できているらしい人が、どうして不愉快そうなのか、まったく判らない。
おそらく「何を考えているのか良く判らない」は、
「なぜ(何を考えて)あなたがここに居るのか(そして我々と同じ活動をするのか)良く判らない」
という事だったのではないだろうか。物事への向き合い方が違いすぎるが故の違和感だ。
そういう人たちとの一番のギャップは、「自らの意思でそこに居るという事の重さの差」だったのだろうと思う。(漫画でよく見る奴だ!! 今まで全く気づいてなかった!)
自分はあまり人生にクヨクヨしていない。楽観的で、自己存在にもある種の肯定感がある。
一方で自己充足が過ぎる面があり、無目的だし、憧れもなく、希望も特にない。
こういう人間と、強い憧れや執着に従う人間とが対面すると、軋轢を生みやすいのだろう。
特に後者の人間が、その欲求を満たす方法として努力を用いた場合、欲求は正当性を帯び、生産の面でも倫理の面でも、絶対性が強まる。後者の人間はその絶対性を積み上げ、今この場所に居ると考えている。選択はその為の重要なファクターであると考えるはずだ。
そして実際、彼らは(前者の人間とは)次元の違う努力を成し得る。努力は目的を達成する効率的手段であり、覚悟もまたその一段階である、と考える。
彼らの強い欲求を、社会の認める絶対性で固める。それは鉄壁の塔である。心柱は高く天まで無限に伸びている。
一方こちらはそうではない。成り行きである。なんとなくである。そうなっちゃったのである。心柱などなく、ただ決めた通り漆喰を積み上げていくだけなのだ。出来上がりにはけだし雲泥の差がある。
生産結果に差が出るのだから、使役する側はそういう人間の差異をよく見極めるらしい。目的意識を持っているか。夢があるか。つまり欲があって、それに向けて努力をしているかである。それが極端な所まで行けば「やる気が感じられるか」という頭の悪い基準になっていくが、無目的な「やる気」が無能の証であるのもまた一面の事実であるし(過去に自分もやらかしたことがある)、使役側の想定する成長に結び付かない別ベクトルのエネルギーは、相応のコントロールを要する(だからそれを理解した指導者と、エネルギーのある人員の出会いは、幸福なものである)。
閑話。
この話を知り合いにしたら、「お前はF1サーキットで車に乗って、ハンドルを握ってるのに一向に発進する素振りがない」ように見えていた、という事だった。なるほど。サーキットにはレースと言うルールがある。観客と言うプレッシャーもあるし、競争心やプライドもある。普通なら慌ててアクセルを踏み、訳も判らず走り続けるうちにドラマもあるものだろう。それがどうも自分にはまるでない物らしい。F1が大仰なら、公道でもゴーカートでも同じことだ(操舵の難易度やスピード、観客の夥多はあるが)。
実際には、レースをしなければならないというルールは、みなが共同にもつ幻想のようなものだ。だからコース上で立ち止まっている奴が居たって問題はないし、それを他のレーサーが叱りつけるのは妙な事だし、先頭が後続を見下すのも、無理からぬとは言えあくまで知ったこっちゃない価値観だ。
だが、一つだけゆるがないのは「走らないと絶対にゴールには辿り着かない」という事だ。どんなことをしていたって良いし、どれだけ先頭と差が開こうが関係ないが、それだけは事実だ。
ただ、一つ重要なことが抜けている。
「ゴール」がない場合がある。勿論、もともとすべての人間にゴールなどない。ゴールは自ら設定し、折々に達成され、或いは失敗し、新たに設定していくものだ。だから、いまゴールを持っている人は、自らゴールを決定する能力を培った人間であるという事だ。(ついでに言えば、そのゴールと社会との親和性がある程度ある)
改めて考えると、自分は「ゴール」を設定するのが致命的に下手なのだ。(無茶な目標を立てるというのではない。むしろ計画は好きな方だ)
「ゴール」とは到達点だ。努力、偶然その他成り行きを踏まえて、自らがその結果に納得し、充足を感じ、他者に認められ(ると信じ)、ある程度の妥当性の上に結実するだろうと想定できるものだ。
つまり一言で言えば「夢」
云々。
と、ここまで考えて、自分を社会から遠く置きすぎたために、達成による外的快感の経験が委縮し、具体性を伴った(快感の)想定ができない(が故に、その快感に向けての努力もできない)のだというあまりにも辛すぎる結論に至ったのでこの話はここで終わりにしておきます。
ただ環境の影響で、(快感を伴うはずの)選択肢が想定できなくなり(故に選択できなくなる)、更にドツボにはまって自発的なエネルギーを衰退させていく例は、過去にいくつか見ています。夢を見れなくなる。夢の形式だけを追う。こわいこわい(他人事ではない)
余談。
今まで社会生活を拒否してきたわけではないです。普通に暮らしてきたけれども、他者から自己を守ることの方が重要だったらしい。限界中年になりつつあるが、そのおかげで、社会で活躍する年下の人が増え、ようやく自分を棚に上げて、努力だとか、コミュニケーションだとかを見渡せるようになったのだと思う。若い人、みんなすごいよ。俺も今更だけどがんばるよ。
でも、ある一定の人口が在るのではないだろうか。
人間はペルソナを使い分ける。と言う。だが、社会的欲求を持たない人間は、仮面の使い分けに価値を見出さない。何も得ようとしないなら、仮面など必要ない。そんな人間は、いかにも幼稚で、怠惰に見え、実際に社会的地位は極めて低いだろう。
あるいは欲求があってもゴールがうまく見だせないから、いつまでも手あたり次第に走り回るだけで、結果を見ると何も成していない。
ここまで考えて、そういった人間を描いたのが寅さんだったのかも知れないと思い至った。
肩ひじ(つまり社会的に高度な欲求)を貼らずに、人柄だけで世を渡っていく人間の悲喜こもごも。寅さんに大望なんて望むほうが野暮に感じるくらいだ。
寅さんは外交的だし内的衝動があるから何とかなる(令和の世に通じるかは怪しい所があるが)けれど、内向的だったらどうだったろうか。
内向的寅さんに、はたして社会は価値を見出し得るだろうか。彼らは自己充足のみで満足すべきなのか、或いはそうかもしれない。
これは、喪われた数十年に萎え切った一人の人間の卑屈な観点に過ぎないが、彼らは本当に、歴史に埋没すべき存在であるのか? そうであると断言するのをためらう程度に、僕と同じような人間が世の中にいる気がしている。
僕が、がんばるよ、と、今自らに空疎でなく言えるのは、今回の思索を通じて自らの状態を認識できたが故である。
夢とは?
抱いて前に進むものではない。少なくとも僕にとっては。
その先に、本当に自分の望むものが在るのかどうか、行ってからさぐるものだった。
物語鉱山「Remains of Tellers」ゲームブックイントロ風解説
市場のシステムが、参加者の主体性を産み、一体感と中毒性を産むのはコミケのまんまだけど、演者側の物語を発掘するコストを、消費者側が負担することで、より市場に深く入っていける言うのは、なかなか面白いかもしれない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2020年1月9日
バーチャルマーケットなどを見ていると、Vの方たちが朗読や、芝居として山ほどに書き捨てられたそう言った短編を披露する、劇場広場のような場があると、物語というものがもっと特別な価値を持ち始めると思っている……
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2020年1月9日
これは百合文芸小説コンテスト2の投稿作が2000作を越え、埋もれる物語が沢山あって勿体ないと、VRインターフェイスを絡めてキュレーションする方法はないかと考察したもので、せっかくなのでゲームブック風にまとめてみました。時限イベントだとより密度が高まって楽しいかな、と思う。
書き手(創作者)
視聴者(消費者)=発掘者=販売者
の三すくみ構造になっている所が肝で、それを仮想的な経済システムで循環させることを軸とする。
:君はカントリーサイド風の村の入り口に立っている。
:左右は馬車置き場、正面には広場があって屋台が立ち並び、一番奥に尖った岩肌の山がそびえている。これが、この村を象徴するRoT鉱山である。
:RoT鉱山は、無数の創作者が書き捨てた物語の累積が化石化してできた山だ。
:RoTの村は、その物語を掘って暮らす者たち、そして、掘り出された物語を演じ、輝かせる者たちの根拠地なのだ。そうちょうど、ダイヤモンド鉱山の麓に、宝石技師たちの村があるようなものだと思えばよい。この村に直接物語を買い付ければ、自分の好みの物語と出会い、安価に手に入れることができるだろう。
:君は手元にいくらかのお金を持っている。それはこの村だけで使える通貨だ。
:君はその通貨で、朗読をきいたり、お芝居を観たり、或いは演者として物語を買い付けたり。物語の執筆者や表現者に直接寄付したりすることができる。
:君は村に足を踏み入れた。
:左端には大きな休憩用テントがある。その中では演技や朗読は禁止され、ただゆったりと異国風の敷布に体を横たえながら時間を過ごすことができる。
:休憩用の大テントの右隣には、個人用の演技屋台がある。2~3畳の広さのシンプルな屋台がずらりと並ぶ仲見世通りで、君は個人表現者たちにお金を払い、彼らのパフォーマンスを堪能できるだろう。屋台に入らず、あちこちの屋台から漏れ聞こえる表現者たちの声を聴いて、にぎやかさに浸るのも良いだろう。
:正面には、大きな鐘楼がある。この鐘は、時間が不連続なこの村にはなくてはならないものだ。
:鐘が鳴ってしばらくすると、屋台の表現者たちはいったん全員退出せねばならない。そうしてまた鐘が鳴るとき、早い者勝ちで自らの屋台を確保しに行かねばならないのだ。特に、個人用屋台は無料で借りることができる。君が駆け出しの表現者なら、まずはとっておきの物語を携えて、ここを狙ってファンを集める所から始めるといいだろう。その際自動ポップアップ看板に、作者と演者の名前、作品名、そして各々の、他のアカウントなどプロフィール情報をきっちり書き込むべきだ。
:鐘楼の下は噴水になっており、荒涼としたこの周辺の岩場に一服の涼しさを与えている。
:君は、噴水の周辺のさほど広くない石畳、或いは展望台のベンチ周辺、そして屋根の下でのみ自らの声が音になるのに気づくだろう。それ以外の場所では君の声は言葉として表示される。誰も彼もが、そこかしこで表現を始めてしまわないようになっているのだ。
:右手奥には、大きな夕日と荒涼とした山並みを見渡せる展望台がある。
:右手前には、30人程度を収容できる中規模テントがある。個人用屋台よりも、より自信に満ちたショーが繰り広げられるはずだ。
:鐘楼を越えて正面の山肌突き当りには、1000人規模の大ステージがある。表現者の者たちは、中規模テント、そしてこの大ホールで演じることを目指すと良いだろう。借りるためには相応にお金がかかるので、頑張って稼ぐことだ。十分なお金があれば、十分なファンがいると考えていいだろう。
:さて、あくまでも視聴者である君は、ふらりと立ち寄った個人屋台で朗読を堪能した。しかしお金が底をついてしまった。それに、君は喋るのがあまり得意な方ではない。そんな時は、集落の一番左奥へ行くと良いだろう。そこではRoT鉱山の坑道の入り口が君を待っている。
:RoT鉱山に入って、物語を発掘するのだ。RoT鉱山の中は時空が歪んでいて、古代の書き手たちが今まさに物語を次々と執筆している所だ。
:君は無数の物語から、掘り出し物を発見するのだ。そして、お気に入りの物語を表現者たちに売ってみよう。気に入ってもらえれば、君の選んだ物語を彼らは買い、翌日にでも演じられるだろう。
:上手く行かない場合も、諦めず交渉してみよう。この作品のどこが良いのかを熱く語れば、きっと通じるだろう。執筆者保証を付ける事も忘れてはならない。
:もちろん、君自身の審美眼も試される。いい物語を発掘できるよう、腕を磨こう。
:ちなみに、古代の書き手として参加をしたいと思った君は、迷わず筆を執ってみよう。
:もし自分の作品を、表現者が舞台にかけた場合、時空を超えて君の懐には大金が転がり込むだろう。選ばれる良き物語を書けるよう切磋琢磨すれば、富豪も夢ではない。勿論、時空を往復しながら、自ら書いた物語を発掘し、売りに行くことも可能だ。
:だがもし、それらの方法がいずれも上手く行かない場合。君は途方に暮れるしかないのだろうか。
:噴水の縁石に座り込んでうなだれている君の耳に、ふと誰かの声が聞こえてくる。それは、流しの表現者だ。発音許可エリアに現れる彼らは、今日は屋台を抑え得なかったもの、或いは腕試し、或いは異様な楽天家などだろう。完成度は低いかもしれないが、君はそれらの調べを聞きながら過ごすことができるだろう。気に入ったら君は彼らや、物語の作者に寄付することもできる。
:もう一つ奥の手がある。それは、大ステージの脇の階段から山の斜面に展開された、物語の買い付け場と、練習場が一体になった第二広場へ行くことだ(君が良い物語を発掘した時も、ここを利用すると効率よく物語を吟味してもらえる)
:そこでは、表現者たちがまだ未完成の舞台を練習中かも知れない。無論、練習は無料で見る事ができるので、君はぼんやりとその賑やかさの中で、拙いが明日の大ステージにのるかも知れない作品を一早く知る事ができるかもしれない。
:日が暮れたら、君は展望台でゆったりと過ごすか、或いは休憩用テントで深い眠りにつくと良いだろう。
:さあ、古代の書き手たちの遺産、RoT鉱山で君の宝物を発見し、それを腕のいい表現者たちに輝かせてもらおう。
ちなみに、今回百合文芸小説コンテストには2作投稿していますので、よろしくお願いします。
天気の子の感想と、セカイ系とかゲーム版とか、あと大人と新しい人たちについて
以下の記事にはネタバレがありますので、見てから読んでください。ほんと。お願い。
天気の子を見てきました。
単純な感想で言えば、
「超乳絵師だと思ってフォローした人が、何年か前にTVアニメのキャラデザやって「へえ~こんな絵も描けるんだ、やっぱうまいなあ!」なんて感心してたらLOで傑作描いてきた」
みたいな感じです。判ってくれる人だけ判ってくれれば良いです。
さて、僕がこの作品のついて感想を書く前に、言及しておかなければならない二つのワードがあります。
要するに僕は、今まで考えてきた二つの論に基づいて、この作品を見ていたのです。もっと頭空っぽにして見たかった。勿論以下の感想もその軸に囚われていますので、もっと自由に見ろよ、という指摘もあるかと思いますが、まあこれも一つの見方という事で。
以上の二つの記事は、読んでもいいし、読まなくても良いです。(読んでくれるととっても嬉しいです。長いですが)
ごくごく簡単に説明すると、セカイ系とは、オタクが自らの迫害を聖典化してカタルシスを得た古のジャンル。
ケツイのコンテンツ化とは、ゲームにおいて、プレイヤーの主体性を単なる選択肢と言う行為に落とし込む際、その選択する行為の意義を極大化する為に、主にノベルゲー(特にエロゲ)で発明された方法論。
と言ったところです。
もうすでにタイトルにもあるとおり、ケツイのコンテンツ化、という考えには、深くエロゲが関わっており、それを以てこの映画を語る以上、エロゲ版天気の子について語るところから始めた方が良いでしょう。
・エロゲ版天気の子
まあ、詳しい事は、そういう印象を得たという人たちが色々書いてくれるので、そっちを読んでもらいましょう。ぼくも、視聴前にそう言った論調を少し見てしまい、影響を受けています。
まあ本当に、ちゃんと一つ一つ、悩み、逡巡するシーンが描かれているんです。そのわずかな間に、エロゲオタである僕らは選択肢を幻視してしまうわけです。あと話の展開ね。主人公の価値観と通ずるヒロインと突然出会って、そこから仲良くなっていくんだけど、肝心の所でヒロインは消滅の危機にさらされて、それをどうするか、一番大きな選択を主人公は迫られる……
何で鳥居に飛び込めば解決しちゃうんだなんて野暮なことです。彼はもうそこまで決断したので、それには報いが来るのです。
公式が「選択」の物語だと言ってたことを、僕は視聴後知りました。キャラの名前が思い出せなくて公式HPを見たのです。
・選択の極大化
選択をする、という事で問題が解決してしまう。そんなことはご都合主義です。むろん、その批判は正しい。けれど、この作品(そして様々なゲームにおいて)は、選択の極大化を行う事によって、その批判を回避しています。
1.選択に対して責任が生じる
+の事だけでなくとっても困ったことが起きます。そして、それは主人公にとっても悩ましい事としてとらえられます。これによって、そんなに都合のいいことが起きたわけではない、と言う印象になります。また、それだけのことを選び取ったという、意志の強さの証明にもなります。それだけ意志が強ければまあ、通ずることもあるかなあ、と、優しい人は思います。
2.主人公の希薄化・選ばざるを得ない選択肢の提示
のちの、「違和感」でも触れるのですが、主人公とっても素直で、優しくて、一生懸命で、真面目ないい子です。誰も嫌いになりません。そして、起こる出来事がとってもスリリングで、選択の余地があんまり有りません。それを素直に選び取っていきます。そうだよね、って思います。一体次は何が起こるんだ~ みたいなのがあんまりありません。ストレスフリー。まるでジブリアニメ(主観)の主人公みたいです。
その結果、いつの間にか、主人公と視聴者が、同じように選択を追体験しています。なぜなら、視聴者は違和感を感じないことによって、主人公の行為に無意識に承認を与えているからです。
ですから、いざその荒唐無稽な瞬間があっても、彼の選択を支持しやすくなっているのです。そうするしかないよね~ 私もそう思うもん。と言う風に、本当にうまく持って行っています。
3.ラストに、主人公の選択及び、選択する行為を肯定させる
まあ、エンタメとしてはそうあるべきなんでしょう。一緒に選択してた視聴者もにっこりです。エゴだけど、それでいいんだと開き直らんばかりの終わり方です。
ですが、この作品において、選択することを肯定しなければ、作品の根幹が崩れてしまうので、選んだあなたはエライ! としておき、あー良かった、あの時頑張って。と、振り返って自らの行為を肯定することで、その選択そのものも、まあ、結果オーライだよね。となりやすい訳です。
ちなみに、上記の選択の極大化は、かのUndertaleなどでも使われている技法であり、またそれは繰り言ですが、日本のエロゲ系文化にも顕著にみられる技法です。
・違和感
いままでの新海ファンになんとなーくピンとこない部分。
・ヒロインが年下
何と年下(同世代)キャラのツボ、「相手が自分と同程度、あるいはそれよりも未熟な面を見せ続けてくれるので、何か安心する」
を使ってくると思いませんでした。ラストシーン。あれは救われちゃう。
「大人にならなきゃいけないのかな? でも一番大切な人はまだあの純粋さ、未熟さのままでいてくれた! そして彼女は俺とおんなじ気持ちでいてくれるし、俺の感覚間違ってないんだ!」
すごい肯定感。もうあの時とは違うのよ、とか絶対言わない。
しかも、キミとかって偉そうな生活力ある中学生とか、もう何なんだ最高か。
世界や社会を否定してないからね。いや、否定的に描いてはいる。確かに描写される、「大人のセカイ」との対立は極めて明確だ。けれど、その世界と決定的に決裂はしない。明確な抵抗の意思を示し、その上で、水没しても人の生活が描かれてつづけていて、世界がわの強靭さが示されている。
(もっと判りやすく言うと、対立する大人のセカイは絶対的なものとしての世界と一致しないのである。ここが決定的にセカイ系とは異なる。大人のセカイは大人のセカイ、主人公たちのセカイは主人公たちのセカイ、そして実世界は自然の司る世界として超然とあり続ける。
いわゆるセカイ系は、これらが混同されてメチャクチャに入り乱れて闘争する中に、ヒロインという絶対神を据えて戦い抜く聖戦士の姿を描いたものと言える。
そして、もしかしたら若い世代には冗談に思われるかもしれないが、ほんの四半世紀年前まで、個人や社会や自然と言った価値観は今以上に混同され、訳の分からないセカイとして、アイマイなまま絶対視されていたのだ……)
ヒロインも、君の価値観は正しいよって肯定してくれるところはまさに、セカイ系ヒロインだけど、それが世界と決定的に断絶はしていない。まあ、悲しんではいるだろうけれど。
内的な価値観が、世界に泡のようにバラバラに存在できるんだ、と言う、多様性の姿を描いたようにも見える。そして、それが個人と社会とが激しく相克していた平成初期なんかと、隔世の感を与えるのだ。
・絵が何か平たい
セカイ系の特徴であった、主観によって描かれる世界、じゃないよね、今回。悪く言えば、それぞれの画(特にレイアウト)が客観的で面白みがないし、演出も、ここぞ知れ俺の衝動、と言うよりは、そうなるからそうなるって言う感じの、当り前な感じ。感情の高ぶり? じゃあ雷だね、発砲だね、といった、とてもドライな感覚。
新海監督が叙情作家であると言われて、絵からにじみ出るんだよねー、と言った感じがあんまりない。相変わらずキレイではあるけど。
これは先述の、主人公を希薄化するための方法論なのではないかと、勝手に思っています。絵に余計な主観が載ってないから、視聴者が主人公の選択する姿をストレートに享けることができる。主人公は割と何にも語られないし、何か抱えてるんだか全くわかんないし、でも、それがとにかく、他人として一生懸命動いてる姿を見せる、それを客として応援するという構図が、おそらく必要だったのだろう。
・2011年と三年前と新しい世代
さて、君の名は大ヒットして、その次どうしようかな、と考えたはずなのです。その時に、選択を中心に据えようとしたのは一体誰なのでしょうか、僕は知りません。
けれども、この判断は極めて時勢を捉えていると、思ったのです。
最近いい歳になってきて思います。昨今リバイバルだの、僕ら向けの作品が闊歩しているけれど、それより上の世代の作品は、あまり見られない。それと同じようなことが、きっと、5年後10年後に起こるだろう。
その時僕らは完全に、市場としてもロートル化する。おそらく僕らが見るコンテンツ市場は、驚くほど姿を変えるでしょう。その断絶感に乗り遅れたくないと、いつも思っています。絶対に、ぼくら向けでない時代が来る。
市場には、どこかで見たような作品が、しかし若い世代にとっての新しいものとしてあふれ、それにうんざりしながら、新しいおもちゃも与えられず、結局過去の自分に回帰していく。(その時僕らは、幼児性を抱えたオタクから脱し、大人のようにふるまうようになるのかも知れません。ぼくらは若い人たちの感性やコンテンツを陳腐、下らない、青いと言って否定し、「大人のセカイ」に引きこもるようになる(ように若い人たちからは見える))
消えてしまわないコンテンツ、あるいはその製作者となるために、やはり常に若年層に働きかけて行かねばならない。
「天気の子」には、そんな明確な意図が働いている気がするのです。
だから、この作品に大上段から構えても、肩透かしを食らう気がしているのです。新海監督が常々、少年少女向けジュブナイルをやりたいんだと言っていた、その面が強く押し出されていると考えられるのです。
もしこれが、超美麗なだけの「コドモ向けアニメ」だったとしたら、それはそれで大変贅沢なことです。もちろんそうでないだけの骨組みがこの作品にはあり、それは明確に意図されて組み込まれています。
とはいえ、今回の論旨はあくまで2つに絞ったので、あくまでその視点は崩さずに行きましょう。
前掲のセカイ系についての考察に基づいて、なぜセカイ系が衰退したのかを考えると、
・社会の価値観の多様化
・オタクが迫害される存在でなくなった
・鬱屈とした自らの正当化より、より具体的な問題の解決が好まれるようになった
などの要素を見出すことができます。
シンゴジラが称賛されたとき、しきりに「ちゃんとみんながやるべきことをやって、何かを解決しようと対応しているのが素晴らしい」と言われていました(意訳)。
けど、シンゴジラは多分ウソです。もっと邪魔で、無能で、下らない人間が、政府にだって沢山いるだろうし、でも、それは創作上の理想として排されるべきだ、となったわけです。
その傾向はおそらく、徹底した個人主義からきているのでしょう。自己責任論や生産性云々からこちら、国が右肩下がりな状況で、いつまでもメソメソしているやつは邪魔だと、感じられるようになっている。
人間の理想的な姿は、解決を模索し、文句も言わず運動し続け、物事を導く主体性を持つもの、となってきた訳で、当然「天気の子」は、そういった態度を称揚する映画です。その結果として、東京が水没しようが構いません。
いいんです。彼は選択したのです。そして、彼なりに一生懸命誠実にやった結果があれだったのだから、それは肯定してあげるべきだと言うわけです。
君の名は、は、2011を受けて盛り上がった「絆」の称揚の物語でありました。敷衍して考えれば、それ以上の何かを見出すに至らなかった。あるいは、それでも十分な到達点と認識されていた、と考えられます。
絆があれば、死んだ人間が生き返ったっていい訳です。
新海監督のインタビューで、監督がその批判、つまり「災害をなかったことにした」という批判を、わざわざ心においた上で天気の子を作ったという言葉を考えると、「絆」の次を考えなければならなかった、その際に、2016以降様々な課題が顕在化し、絆と言う言葉が空疎化する中で、今、そしてこれからの理想の姿として「選択し続ける」人間を描いた、という事は、きわめて自然に思えます。そして、その際に選択によって世界の方が損害を受ける、けれどもそれを肯定する、と言う姿勢には、間違うし、うまくいかなくても、僕らは選択し続けなきゃいけないんだ、と言うテーマが見え隠れします。
そして、
・自らの選択への確信
・選択によって起こった出来事を受け容れるだけの覚悟
・選択を肯定してくれる人
・選択を責め立てない世界
それらがラストシーンには全てそろう。
だから、僕らは
「選択しても大丈夫だ」
「前に進んで大丈夫だ」
「やれることを一生懸命、わかんなくたって大丈夫だ」
あれが僕ら(或いは、大人でない新しい世代)へのメッセージでなくて何でしょう。世界はそうあり、そうであるべきだ。ぼくらはそうした世界で、理解者を得て、エゴの責任を背負いながらも胸を張って前に進むべきだ。
それが、2011から絆を乗り越えた、徹底した個人主義の帰結としての2019の世界であるべきだ。
そんな明確な一点を見出すことができる気がするのです。
まとめると、「天気の子」はセカイ系のフォーマットを援用しながら、次世代の個人主義の在り方を肯定すると言う、いっそセカイ系とはまるで逆のことを描いた、やや応援映画的な(つまり、観客すらも相対化した)様相を帯びた娯楽映画だったのであろう。
以上、取り急ぎだけれども、言いたいことが沢山あってまとまりのない長文感想でした。最後まで読んでくれてありがとうございました!
セカイ系についての考察の時系列
過去に僕が思考の対象としてきた、セカイ系における考察の系譜です。
なお、ここで言うセカイ系やオタクなどの単語、および、それに基づく論はあくまで僕の雑多な感覚を表しただけのものです。他の方との定義が異なる面も多々あると思います。ご容赦ください。
ジジババの恋とか、生に対する執着とか、その辺を考えてたら、ようやくセカイ系が描こうとして来たものに少し手を触れかけた気がした。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
さかのぼれるだけのツイートから見つけた、最古のセカイ系への言及です。人生を十分に過ごしてきた人間同士の恋愛、あるいは過ぎ去った時間への執着などをまず思い浮かべましょう。
うまく言葉には出来んが。90年代から00年ごろにかけて流行った死にかけ系ヒロインと言うのは、これから起こるであろうそのヒロインとの長い人生を予感させつつ、その予感上の人生を夭折の直前に凝縮しているのだ。だからこそ、キャラもそれに入れ込むオタクも、そのヒロインに誓いを立てることができた
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
つまり、出会ったときや、過ごした短い時間に出来事を凝縮し、人生における悲喜こもごもを一気に経験させる。あるいは、その二人がずっと暮らして行くという、予感上の未来を展開し、それをすでに体験したかのように錯覚させる。
それがどういった方法論だったのかは、いまだ検討の余地に満ちているが。誓いとは、そのヒロインと共に過ごす予感上の時間に対して誠実であろうとする姿であり、その時間に成立する様々な価値観が、彼らの将来的な行動を抑制することからそう呼ぶとして、その予感上の経験とは、単なる期待感とは異なる
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
きっとこうであったに違いない、だから俺はこうするのだ、と決意する態度は、単に未来を想像するだけで起こるのではなく、その予感上の未来を、部分的にでもたしかに経験したからこそ、起こるものと言えます。勿論そのシーケンスに結構な時間を割いている作品もある。
或いはまた、単なる喪失感とも異なるのだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
そのヒロインと過ごす出来事や時間を、驚きに満ちた目覚ましい期待感の中に瞬間的に予感することは、一目惚れの一種として、またかなり偏執的な側面も持つものだ。そしてその予感を、実際上の人格や時間が裏切らない。この、強烈な一目惚れの追体験が、当時のコンテンツの持つ一つの催眠作用であった
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
もちろんそれを後々裏切っていきます。ここから、少しセカイ系のものとは異なる話になってしまうのですが、まあ、話の運びもあるので、列挙。
この催眠の大きな特徴は「人は相互に善き人ととして理解し合える」という前提に基づいており、これをゲームでは、プレイヤー自身の善人度を試すことによって与える。すると、善き人との滑らかなコミュニケーションが得られる。これが、人間関係に疲れた人種への慰撫として働いたのではないか
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
ここでは、ゲームにおける選択を、善人度の測量としています。何故、善き人である必要があるのか、そこは後半で触れます。お楽しみに。
然るに、当時の主人公-ヒロイン間の関係は、当事者同士が善人であれば成立し、それは時間を超えて永遠に続いて行く物とされた(一概には言えないが)これは複雑な思考を必要としないもので、ドラマツルギーの未熟さとともに、世界さえもが、そのコミュニケーションの下位に位置するという事態を生んだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
主人公-ヒロイン間の、一種の倫理的神話への従順性の下に世界側が構築されていく、これがセカイ系の基本構造であり、現実から神話的世界への逃避がこれを生んだと考えると、今、セカイ系の作品が生まれにくいのにも一応の合点がいく。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
また話がセカイ系に戻っています、ちょっと混乱しているようです。ただ、善人同士の信頼が永遠に継続する絶対的価値であると、言いたかったようです。そして、ここにおいて神話世界への逃避と表現していることが、実は後々大きなウェイトを占めてきます。
価値観の多様化と絶対性の崩壊、人の人格も、コミュニケーションも、倫理の下に生まれ落ちたのではない。ある意味で、初期のネトウヨと当時のオタクが相性が良かったのには、そういった倫理的神話の絶対性に身を委ねる事で、善きコミュニケーション、善き人生が送れるという幻想があったのかもしれない
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
ここは余談。倫理的神話の絶対性、の、絶対性についての論証はやりかねます。でも、我々はそう信じがちじゃないですか。
いずれにしろ、ヒロインの褒章的態度がやたらと強調されたり、そうでないヒロインは当然のように人格を持ち始めたりする昨今の創作のトレンドにおいて、唯一人の倫理に呼応する、思想と、それに従った善き人生の予感を肯定する、絶対神としてのヒロインは、姿を消して当然のようにも思われる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
ここで、
ただ一人の倫理に呼応する思想と、それに従った善き人生の予感を肯定する
と表現しているわけですが、つまり、そういった関係性が永遠に続くと保証する(倫理的神話の絶対性)ことで、彼女との予感上の未来は、現在の経験の延長として保証され、然るにプレイヤーにとっての実感になる。
そして、予感上の人生を共にした相手に対する誓いを、我々や主人公は成し得るわけです。
この時点では、セカイ系に限らず、ヒロインを絶対化する傾向と、その手順の概要についての推論を行っていました。そして、その極致として、ヒロインの存在に世界の方が下位につく、という象徴的な作品として、セカイ系を取り上げたようです。
なんでセカイ系って衰退したんだろう、なぜ今成立しないんだろう、あそこには素敵な物が沢山あった気がしたんだけど、と、思っていたんだけれど、なんとなくその理由が判った気がした。なんつーかストイックすぎるんだな。大衆化したオタクに向けてやるには。若い人に向けちゃうと悪影響ありそうだし。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
でも、ヒロインも主人公も、世界も全部俺の思想の下に統制されてるんだ、それを最高にキレイに見せたいんだ、っていう偏執的態度は、そんなの面白いに決まっているのだった
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
まあ、これは単に僕がそういうの好きだったなーって言うぼやき。けれど、どうやらこの辺りから僕は、セカイ系と言うものは何だったのか、という考えにとり憑かれ始めたようです。
AirのMADとか、セカイ系の作品とか、茫洋とした所のある作品の方が、映像の断片で喚起される感情が大きいのってちょっと面白いな。つまり、絵や雰囲気で語っている所が多いという事だろうし、それがドラマ作品として優れているかというと実はアンバランスだという
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月6日
折に触れて顔を出す、セカイ系というワード。論としてはちょっとボンヤリしていますが、この、絵や雰囲気で語っている、と言うポイントは、実は「天気の子」を語る際に極めて重要になってきます。
https://t.co/oG8EdeCpnQ 文句なしに面白かった。最近ずっと自分の中には、セカイ系とは何だったのかという疑問があるんだけど、その一端が、こういった日本的とは思えない議題、表現方法上に現れてくるのは興味深い。主観や自らの振る舞いが、大きな時代の流れや世界に連続している感覚。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月19日
この時にはもう議題を意識し始めています。
https://t.co/0nszJVOal1 その定義上にはこの作品もあって、これは一種の時代劇で、主人公たちの若い感性を描く作品でもなく、もっとドライな感覚があるんだけれども、確かに時代と人の振る舞いや考え、主観、生き方がリンクしている、俯瞰的なのだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月19日
定義上そうに違いないのだが、この、世界と密接にリンクした人間の、感性や主観をシミュレーションする、あるいは、描きたい感性を前提に、それを強調する世界観を再構成するというのが、基本的な技法という事ができ、アプローチの前後はあるものの、これら作品が僕の感覚に訴える一つの答えなのだろう
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月19日
ちょっと拡大解釈しすぎですね。このころは定義も曖昧で、それっぽいという事で呟いていたようです。ただ先述の、主観と、世界そのものと、その表現手法が高度に一致するという点に、注目したかったようです。
平成が終わるし、自分の中のセカイ系的なものに見極めをつけないとなあ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月14日
胃が痛くなってきた。あれ、はもう失われたんだ。それがなんだか区切られることによってはっきりした気がする
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月14日
最終兵器彼女を再読了。意味わかんない頃に意味わかんないまんま圧倒されてて良かったー! 今読んでたらスゲーけど足取りの重い作品だなくらいに評価してたかも。そういう意味で、自分には通り過ぎた作品でもあると言うことなのだろう。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月17日
ずっと気にしています。
人、特にヒロイン級に主人公とかかわる人間を、象徴的に描くときに、自分にない「外部への接続」へのあこがれか、「内的な制限」への庇護欲求をアタリにして関係性を結ぶと、見た目だけのひとめぼれよりだいぶ穏当だな。と思ったメモ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年2月2日
主人公が外交的でない前提になってますが、これはヒロインの絶対性があるためです(ヒロイン以上の存在はない)。その上で「外の世界の可能性への憧れ」か、「内的に問題を抱えた人間を援ける」優越感か、関係性の取り結びにおいて、そういうものがよく使われるような気がする、と。厳密に言うと、セカイ系の特徴でもないし、並立させる要素でもない気もします。
で「外部への接続」を、憧憬を得られるように描き、かつ独占的にするために、(あるいは作者の想像力の限界で)「外部」は抽象化するし、そうすると、「抽象的に世界と接続する」ヒロインが生まれるので、これも一つのセカイ系の解釈かも知れない
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年2月2日
試論。外に開き、たくさんの可能性を手に入れて、その中で伸び伸び生きて行く、という健康的な理想と、絶対的ヒロインとの相克の結果、世界の方が抽象化する場合もある、という事です。
諸星あたるですら、映画ではセカイ系の呪縛に囚われたのだ……(時系列的にはむしろこっちが先か)
現実に存在する個をいかに充たそうと、けだし死からは逃れられないが、現実の充実を以てせずとも、信仰は一足飛びに存在を肯定する、死を超え、時間的、物理的限界が消滅するのだから、今が満たされずともいずれはと
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年6月1日
信仰って強いよね、と言う話。一見何の関係もないようですが、実は最後の方でなんとなーく関わっているような気がしたので、入れました。
雲の向こう を見てたんですよ。もういっそ殺してくれ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
わかった。この痛切な孤独と淋しさを、傷をえぐりながら掴みだすのがセカイ系だった時に、キセキだろうが何だろうが、猛烈な優しさの感情でそれを押し流すのがKEYだったのか。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
何かが判ったようです。セカイ系の特徴を、
痛切な孤独と淋しさを、傷をえぐりながら掴みだす
と、表現しています。定義的にはある程度共感してもらえるかなと思うんですが、これは以前から持っていた感覚です。論旨はKEYの話なのですが、このタイミングではもうセカイ系についてある程度の見通しを建てられていたように思います。そして、その特徴をカバーする形で鍵作品はヒットしてたんじゃないか、と言う話です。
そりゃうけるよ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
完全に時代を捉えてた
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
オタクの中に共通していたであろう、疎外感と孤独感を背景として、それを比喩でも何でも捉えて表現まで昇華したセカイ系と言う作品群、そしてそによって自らの孤独を自覚したオタクたちを癒すための物語・・・
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
”オタクの中に共通していたであろう、疎外感と孤独感を背景として、それを比喩でも何でも捉えて表現まで昇華したセカイ系と言う作品群”
これが、一つの解です。
そしていま、改めてこれらの定義の類を総合して、僕がセカイ系とは何だったのかを定義することには、
「90年代後半、終末思想はびこる中、迫害を感じていたオタク(や表現者)たちが、自らの愛する二次元表現に救いを見出し、それを絶対化・神聖化して、抑圧してくる世界と主観的な表現で対立させ、現実社会への迎合を否定、正当化する意識の下に生み出された作品群」
とでも言うべきでしょうか。
迫害や抑圧の感覚は、ヤンキーものや、尾崎豊の世界観などの殺伐感のように、それ以前までも表現の主体でありえました。彼らはある種の荒んだ感覚でその疎外感を訴えたり、暴力的行為に出ることでそれを打破しようと足掻いたものであろうと思います。外向的な抵抗です。
一方でセカイ系は、理解されない俺たち、を神聖化し、正当化する。絶対神であり、主人公の価値観の保証者でもあるヒロインと共に、それを否定する既存社会を内向的に拒絶する。けれど、社会を拒絶することが非現実的であることはみんな判っていて、その中で都合良くノーテンキでいる事もまた、信じがたかった。
だから、ヒロインを中心とする信仰が勝利すれば、世界(既存社会)は崩壊したり、主人公が破滅したりする。一方で、既存社会を維持する方向ではヒロインの存在や、大切なものが毀損される。開き直りもできず、まるで隠れキリシタンのような屈折を遂げ、血のにじむ受難の歴史、その殉教者として神に尽くし、足掻き苦しみ、懊悩する自らの姿を肯定する作品群に、聖的な救いを見た。
これが、セカイ系であったのだろう、と今は思っています。
この結論に達したのは、つい最近でした。そして、この視点を持って、ぼくは「天気の子」を見に行ったのでした。
そして、セカイ系の先にはいったい何があるのか。これは、天気の子の感想にもつながる重要な視点です。
時代遅れになる訳だ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
今の作品群はオタクに自覚を促さない・・・言い方が悪いけど、すでにそういった、何かしらの不満や苦しみがあった時に、それを暴き立てるようなことはせずに、さっさとそれを覆い隠し、癒す(嫌な言い方をすれば誤魔化すような)作用を持つ物語の傾向なのだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
そして、その方が圧倒的に娯楽として本道なのだろう
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
市場原理に基づく限り、人を慰撫するのが物語の大いなる役割である原則は、変わらないはずだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
しかし、何かしらの不満、苦しみがある際に、まずそれを強く印象付けるからこそ、救いやその破壊やらが強烈な快感になるのだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
その、最初の直視に
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
耐え切り、物語を一緒に戦い抜く体力がもう遺されていないのか。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
面白いのは、セカイ系時代の「こんな苦しみがあるよ・大」→「こう解消するよ・小」 と言った物語中の比重に反して、最近の作品は「こんな問題があるよ・小」→「こう解消するよ・大」といった感じになってるという点。一時期言われた、苦しみがあるのはとっくに判ってる、と言う客層の反発がよぎる
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
また、諦めや空想ではなくて、具体的に問題を解消していこうとする、主体的意識の変化もはっきりとわかる
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
そういう変化を見ていると、閉塞よりも打開へと動く姿勢を多くの人が妥当としているという点で、希望がある気がする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
とりあえず、天気の子の感想を書くために必要とした、僕の持っている前提を、ちょっと乱暴ですが列挙しました。