ケツイをコンテンツにするという事
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Undertale本当に面白いですよね。DDLC(DOKIDOKI文芸部)も。ストーリー構造になんだか日本のコンテンツめいた雰囲気があるなあと思うわけですが、その理由はここにあるんじゃないかという、推察です。
話の発端は
[MAD] トゥハート2 - Last Present https://t.co/LuqTpB1Yke @YouTubeさんから クッソきもいオタクだから、未だにこれが大好きで時々見たくて仕方なくなるんけど、エロゲ特有のポップさと、一人の人間と長く交流することで、相手と自分の昏さを通じ合わせる快感がよく表現されている
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
であって、全然最近の話じゃないんですが、エロゲギャルゲ特有のドラマツルギー(話の運び方くらいの意味で使っています)ってあるなあと。
相手の昏さを知る、自分がそれを受け入れる覚悟をする、というのは一種のセオリーで、プレイヤーの絶対的優位性に立脚しつつも快感に昇華したものだと思っていて、それは理想的な恋愛の姿ではない(プレイヤーの心情による)場合もあるが、その根幹に強く同情の念が働いているのは、注目に値する
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
同情の事については以前の記事で詳細に語ったので参照まで。
人のためになりたいという利他心と、他者に施す優越感とを根源にしつつ、それを、カワイイヒロインを相対的に弱らせることによって感じさせる。プレイヤーたる自己の開示は結構扱いが難しいと思うが、概ねそれが行われるのがメインヒロインルート.
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
プレイヤーたる自己の開示、とは、要するにプレイヤー≒主人公自信が、どう思ってどう行動するかという事をはっきりさせる、という事です。ギャルゲやエロゲでは、各ヒロインのルートに足を踏み入れるか否かの決断に象徴されるかと思いますが、過去にあった出来事や失敗を自ら認め、その上で、次の行動を積み上げようと決断すること、と大きくくくってもよいかもしれません。大体この最初の反省部分がないと、微妙なシナリオになったり、バッドエンドに行ったりしがちです。
そして、その選択をしたという実感をプレイヤー側に持たせることが、ストーリー上重要なわけですが、
プレイヤー自身に覚悟を決めさせる、というのはノベルゲーにおいては結構な大イベントであり、しかもそれが主人公自身の人間性や過去と連続する情報(≒弱さ)の開示と反省による以上、まさに主人公自身の決算ともいえる行為になるわけで、だからこそメインルートたり得る
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
自分(プレイヤー)しか知り得ない主人公のある種の罪(怠惰さや、過去の間違った選択、偏見や傲慢さ) それを弱さと認める態度を、それほど大きく見る理由は何なのだろう? より大きな弱さを前にしないとそれを開示できないのは、ある面からみれば不思議な話でもある。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
つまり、プレイヤーが自らの過ちを認めるために、あえて目の前に弱った存在を提示している。こいつには攻撃されないという安心、あるいは同情心、あるいは逆に、そうしなければならない強烈な圧力がなければ、プレイヤー自身は自らの過ちを認めることに消極的であると。そもそも娯楽のためのゲームなのだから、自らが反省することがコンテンツというのはだいぶ倒錯しているのかもしれない。
余談だけど、この原則はUndertaleで極大化されている。プレイヤーをキャラに埋没させるために、行為の決算を行わせるシステムはあのゲームの根幹と言ってもよく、それを罪と明言して、それを受け入れる自らを開示(自覚)せよ、と。そして、そこから更に一歩先に進むための仕掛けが沢山ある
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
ここでUndertaleの話になるわけです。反省し、次の行動を選択せよと迫る。ケツイの構造は、プレイヤーを主人公とを同一化させることに腐心し続けてきたエロゲギャルゲの歴史の果てに生み出された方法論に依拠していると、考える事が出来ます。
エロゲ的方法論があらゆる方面に影響を与えているとはとても言い切れないが、この「罪を自覚する自己」は、形を変えつつも、我々に衝撃を与え続けていると言えるかもしれない。一方でUndertaleの、半ば押しつけに近い罪の指摘に較べて、エロゲ的主人公は、それを弱さとしてなかなか開示しない
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
Undertaleの主人公は喋らないし、(高度にコントロールされているとは言え)プレイヤーの行為までは規定しない。一方ノベルゲーは行動がどうしても限定してしまうから、プレイヤー全員をある程度納得させる必要があるというのはまあ間違いない話ではある
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
まあアケスケな話だけど、主人公が素直すぎると業が深くならなくなるので、ノベルゲーではプレイヤーの行動を大きく規定する以上は、多少拗れさせた分の補填をしないといけないのだろうと。
DDLCもUndertaleも、最終的にはプレイヤー自身の行動を誘発するように作られてるけど、前者は別にプレイヤーのゲームプレイそのものを責め立てる仕組みではない(プレイヤーの心情による)ので、この視点で見れば、構造が違うと言えるのは面白いところ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
いずれにせよ、二つともゲームプレイの根幹に、プレイヤーのケツイを求めていて、これはゲームプレイにおける本質の一つ(何せ読んで選択肢を決めるだけでゲームとされる)であると言えるだろう。
そんでまあ、映像媒体では「罪を自覚する自己」の表現って結構難しいよねっていう所で落としとこうかな。レミゼラブルの冒頭とか? 信仰心と困窮は、視聴者を納得させるけど、いずれ他人事ではあるよね
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
だからこそ、映像はいかにすればよいのか……ゲームも作ってみたいものだな、と思うきっかけでもあって、やっぱりUndertaleは素敵なゲームです。DDLCも。