同情と憂いの話
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何かといわれがちな分厚いまつげと下まつ毛の表現、あれとギラギラのハイライトで表現される「憂い」の目は、何物にも代えがたい強烈な魅力で以て自分を縛っているのだけれど、これが世代的な感覚なのかは何とも判らないのだった
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
Twitterで以前話していたのですが、我々の感性にある、同情と憂いの感覚について、少し考察したものです。
重要なのは、憂いとは、ある物事について心配し、哀しい気持ちになったりする内的な、個人的な感情であるという事。そしてそれをベースに他者を思いやる技術が「同情」であったのだろうという事です。「みんなで集って哀しみ合う」という行為が、貴方にとってはどのようなものと感じられるでしょうか。
非生産的でしみったれて居ると感じれば、貴方は問題解決型の思考を持ち、ある種の人達を見捨てながら前に進んでいく人でしょう。もしかしたら、あなた自身がその価値観に苦しめられている可能性もあります。
その集団を、優しく、思いやりがあると感じた人は、人の痛みに寄り添い、皆で哀しみを分担して和らげながら、いつまでたっても対処療法的にその苦しみから逃れられない人でしょう。
どちらが良いとか、不幸であるとかは、個々人が判断すればよい事です。
誰かに傷をつけられた時、前者は傷つけてくる相手を排除することを考え、後者は傷を癒すことを考える、そういう違いであって、どちらもバランスよく居た方が良いという、当たり前の話です。
とはいえ、日本の創作物の系譜をざっくり眺めていると、どうも伝統的に後者の態度が顕著に表れていると感ぜられます。その創作物が庶民の娯楽に近ければ、作品に描かれた価値観はある程度当時の庶民に承服しやすいものであったと考える事が出来ます。
暇つぶしに読んだ澁澤龍彦の本で、「情死(心中)」が、一つの純愛の到達点であり、文芸的にも型となっていることが書かれてたけど、まあセカイ系もその延長にあったんだなー、と。どれだけ昔から日本人の奥底を「憂い」が支配してきたのか。だが、それもここ十年ほどで少し違ってきた風にも思う
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
一方で最近の出来事を見てぼんやりと考えることは、災害が多く貧しい国で、コミュニティとして穏当かつ強く結びつくために我々は憂いと同情の感性を肥大させてきたのだろうと思う事だ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
まあ、そういう事なんじゃないかなあと。
だがこれは、憂いに足る何かが起こることを前提としていて、そういった事を起こらないようにするマネジメント的な考え方に結び付きにくく、平穏な時にも杞憂に苛まれるものを生みかねない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
同情や憂いは人の感情やダメージを表現し、共有し緩和する効果のある、ある種の手段であり、それが共有の場を失ったり、あまりにも内的に再生産を繰り返したりすると、劇物化してしまうのではないか、と。憂いは次の行動へ移るためにいずれ通過すべきもので、それ自体も他者との間を行き来するのが、本来の形なのではないか。
しかるに、苦悩は共有されない所から深淵へと向かっていき、共有された苦悩は戦いへとつながっていく、という傾向。
また本当の同情は芯から自らの「憂い」を顧み、相手とは種類は異なってもその憂いを分担するという構造によっており、そうであるからこそ身を挺するという法も出てくる。それを安易に絆とか、助け合いとかいう言葉に堕とさざるを得なかった背景には、「憂い」とその感性の低下があったことが推察される
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
「絆」という言葉は本来的には、同質の共同体の中で、二次的に意識される感覚であって、共同体の一員としての個人の自覚を必要とする。だからこそ、その自覚のない人間や、共同体の感覚を理解しえない遠方の者までその言葉でくくりだすと、言葉が意味を失ってしまう。
「助け合い」は、より即物的な言葉である。だが、先述の絆、という言葉の無意味さよりは、他者の理解しやすいレベルでの援助を求める言葉でもあり、社会的効果を生むだろう。だが、本質的に傷ついた人を癒す効果は限定的であると考える。それに、一方で激しく傷ついた者があるなら、必要なのは助け”合い”ではなく一方的な救助や援助であって、言葉にあいまいさが残る。
また本当の同情は芯から自らの「憂い」を顧み、相手とは種類は異なってもその憂いを分担するという構造によっており、そうであるからこそ身を挺するという法も出てくる。それを安易に絆とか、助け合いとかいう言葉に堕とさざるを得なかった背景には、「憂い」とその感性の低下があったことが推察される
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
同情するなら金をくれ、という言葉がはやって、同情という言葉は零落したのだろう、もちろん、その素地はすでに固められていたのだろう。形式的な同情や、半強制的な心情を伴わない行為としてそれが濫用され、本質を理解しえなくなれば、当然言葉の意味も変わる。
敗戦の全日本的苦しみの中で、苦しみを抱え合う者同士が、自らの苦しみを顧みて、他者の苦しみを共有することが容易だった時代。そして、ネットワークの未発達によって、目の前で起こったことにしか、本質的に行動できなかった時代。そういった中において、同情という行為は極めて有効に働いたであろうことが推察される。
社会のスタビライザーであった「憂い」と「同情」が零落し、言葉だけのものに堕ちれば、自ら憂いなきものが、あまりに溢れる世の憂いを理解できずに口を立てるのも、自らの憂いを自らだけのものと内包化する者が、同情の法を学ばずに苦しみ傷つけ合うのも、ある意味では常道。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
けれども先述の通り、最近は色々と意識が変わりつつある気がする。「憂い」は一つの「枯れた技術」であって、無論功罪がある、それに依存しない、新しい秩序を探している最中なのかと思う。その世代が生む作品はどんな物になるか「憂い」の最後の世代かも知れない自分は、楽しみに思っている
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
「憂い」は、我々の使い慣れた道具であり、風土や気候にも合っていることを考えると「憂い」の法を、一つの道として残すことは、もしかしたら、ではあるが、新しい価値観から零れるかもしれない多くの人を、救い得るのかもしれない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
実利主義と、行動によって世界を変革し続けなければならない時代で、世の中は良くなっていくだろうが、感情的に顧みられず零れ落ちた人たちを救うのは、古典的な方法であるかもしれないという結びです。(まあ、傷の舐めあいは適度な所で切り上げられるようになれば理想的、というところですかね)