アマチュアのためのシナリオ試論:原稿


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まず

 2022年の初めに、光栄にもラジオ出演させていただく機会を頂きました。

 本当は一時間ほどで終わるかと思っていたのですが、午後九時半から、終わったのは深夜一時前と、三時間ほどぶっ通しで喋るという気の狂った結果になってしまいました。大変楽しかったです。

 タイムシフト機能がないので、配信は言いっ放しになった訳ですが、原稿をここに提示することで、内容の再確認に使ってもらえればと思い記事化しました。

 実際は口頭で分かり易く言葉を補いながら喋ったため、完全な内容は、聞いてくださった方の特権という事で……

 以下。

 

マチュアのためのシナリオ試論

 自己紹介

 Magenic_Cafe代表 まフェです。
 オリジナルの創作をやったりしていて、全国50万人の「ウマ娘マンハッタンカフェがボクっこだったら正気を保てなかっただろう同盟」の一員であり、「お前のアニソンのプレイリスト、菅野よう子澤野弘之ばっかりじゃね学会」の会員です。
 よろしくお願いします。

 前口上


 これからシナリオについて話す
 プロ向けのシナリオ論ではない


マチュアとは

 金を稼いでも、稼がなくても、作っても作らなくても自由 縛りがないのがアマチュア

プロとは?

 ある要望に対して、成果物を顧客の我慢できる程度の時間で提供して、報酬を得る振舞い。
 某漫画家は顧客が待ってるからプロ漫画家で居られる。顧客に要望され、それにこたえるのがプロ。
 プロ向けのシナリオ論、とは、顧客次第となるが、迅速に提供することが肝になる。
 例えば、ある程度得意なジャンルが偏っていたとしても、使う側が選んでくるし、会議もあるので、その中で柔軟にものを生み出していく発想力とコミュニケーション力、構成力がものをいう……と思う。

 SIROBAKOとか見ればいいんじゃないかな。

 

 アマチュアは、そういった縛りはない。縛りがないからこそ、間違いがないので、楽だし、逆に答えがないから難しい。
  迷う。そういう迷いを解消する手掛かりになればうれしい。

シナリオって何のためにあるの?

 ・・・★(人に内容を共有する為的な)

 シナリオは、一人で全部わかってる以上要らない!

 終 製作著作 せとらじ
  
 は、冗談として、アマチュアの作品は超短編とかもあるので
 実際にはシナリオと、物語と、シチュエーション設定がないまぜになりがち。
 厳密なシナリオの技法について語れば、原稿用紙の使い方だとか、行は何段空けるだとか、何枚何分だという話に
 今回はあくまでシナリオ試論ということで、物語論を含む内容になっている。
 積極的にアマチュアが、シナリオをかくときに手助けになるような話をしたい
 あまりにも原理的過ぎて、バカバカしい話になるかもしれない
 具体的な技術論は後半に

 

シナリオには長さがある

  長編、中編、短編、超短編
  シナリオと演出の境目は(アマチュアにおいては)曖昧
  映像そのものとシナリオ(テキスト)の、役割分担にも決まりがない
  共通するシナリオ論の構築は可能か?
  最小単位を追求してみる
  


シナリオとは何か?

 シナリオは3行で良い?
 物語の定義

「ある秩序が破られ、混沌を経て、再びまた秩序へと戻る経過」
 その簡素化へ
「ある出来事が、始まって、終わる」
 簡素化の結果見えてくるテーゼ 物語の最小単位とは
「出来事が記述されていれば、シナリオである」
 すなわち
「ある出来事の始まり、(経過)、終わり」
 が記述されていれば、それは最小単位のシナリオと言ってよい

 シナリオの最小単位は、前提状態+駆動状態+終了状態の3つの記述である。
 また、前提状態と終了状態から、駆動状態が自明に導けるのであれば、記述は前提状態と終了状態の2行で済む場合もある。
   
 どんなに拙いシナリオでも、短くとも、シナリオを名乗ってもいい
 尻切れトンボでも、片付いた所までを見れば、(出来はともかく)シナリオと言える。

 とにかく誰でも、シナリオは書くことができる。
   

 なお、5W1Hは、出来事の前提状態と駆動状態の記述法である。あるいはある状態の記述。一枚絵を描くときでも使える。
 ここには終了状態が含まれておらず、伝聞には適しているが、物語の記述としては不完全な部分があると考える。

(例えば、時津風アーボックに締め付けられる、と言うテーゼはある状態を示している。これが「もう五年ほど前の話だが、時津風トキワの森を通り過ぎたとき、突然出てきたアーボックに絡みつかれ、そのまま丸呑みにされてしまった。そのアーボックは今でもそこに居るらしい」となると、お話になる)
 使いやすい方を使えばよい。   


シナリオじゃなくてプロットだって?

 きにするな! まあ詳述の差でしかない。
 そもそもなぜ脚本が必要なのか
 芝居の場合は役者に説明しなければならないし、セリフも必要
 それらを相手に理解してもらうために書くもの。そのために必要なレベルの詳述は場合による。
 だが、アマチュアでは役者を使うかわからないし、自分で済ませてしまうかもしれない。台詞がないかもしれないし、アニメなら芝居は全部自分でつけることになる。
 そもそも舞台ですら、大筋のセリフの流れだけで、あとはアドリブと言う場合もある
 うる星やつらビューティフルドリーマーのメガネの長セリフが全部アドリブ
 それでも脚本
 脚本内にも詳述される部分とされない部分がある。
 なのでそこを厳密に分ける意味は正直あまり感じない

   
 なぜこんなにも簡単な所から話を始めたのか?

   
 アマチュアの創作は
 何を作ってもいい
 つまらないもの、下らないもの、どうしようもないもの、完結しないもの、人を傷つけるようなもの、何でも作る権利がある。
 なぜなら、その出来事を3行記述しただけで、もはやそこにはシナリオが存在している。
 たった3行の空想的記述は、誰にも止めることはできない。
  
 その影響力については、ノストラダムスの大予言
「世紀末に恐怖の大王が顕れて世界が滅びる」という短いテーゼが猛威を振るった例がある。
 なぜ自殺者まで出たこれが許されて、直近の個人の創作が叩かれるのか、考えてみるのもおもしろい。
  
 ただし、お金を稼ぎたい、注目されたいなど、「表現が手段としての性格を帯びる」とき、その手段としての適切、不適切は問われることになる。芸術はしばしば目的ー手段の連続性を模索していると言ってもよい。
 しかし、最適化されていないからと言って、それが間違いにはならない。
 創作の到達範囲はときに作者の想定を超える。


 一歩先のレベルへ


 前提・駆動・終了の3つの状態を記述すれば、シナリオたりうる。
 この構造を見れば、前提、駆動、終了のいずれにも詳述のバランスが崩れると手落ちが発生することが判る。

 前提ばかり多くて駆動状態や終了状態で回収不足になるのは分かり易いが
 駆動状態で現れた事象が、なぜ現れたのかの前提が足りない場合(ああ、そう言うのアリな世界観だったんだ)
 途中まであったラインが終了時になかったことになってる(力尽き・放り投げ)
 なぜかある出来事が物語の終了状態に存在しているなど(異次元ワープ・ジェロニモ分身(幽体離脱))

 あくまでも、まとまりのある話を作る際にはこの三形態の情報を丁寧に結んでおくことが大事だ。
 (別にまとまってなくてもそれはそれで面白いので良い。それらはしばしば想像の余地として愛される)
  
 シナリオは、大きな3形態の詳述でも良いし、小さな三形態の積み重ねでも良い。
 アニメーションの中割と送り書きのようなイメージ。上手く使い分ければよい。

  

 シナリオの描くべきもの

 シナリオはシンプルな記述でかまわない。だが、そこに記述される内容は、どのように選別されるべきだろうか?
 ここからは、シナリオ論ではなく物語論になる。
 単純化のために、歴史を振り返っていく。

  
 物語のはじまり

 大昔、人間には理解できない自然現象や、出来事を理解するために、人間は色々な想像で、理由付けを行った。
 それが、物語のはじまりです。
 ……ウソだよね。あえて言うなら、それは宗教のはじまりや、神様のはじまり、あるいは作り物語のはじまりと言うべきであって、人間の想像力が実在しない存在を生み出すより前にも、人はモノを語ってたはずだ。(あるいは空想も”事実”として語っていた)

 例えば、先史時代。ある男が話している。
「ここからまっすぐ進んで、向こうの三本の木を過ぎて大岩の方へ曲がると、急に崖になっている箇所があった。一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだったが、無事にこうして帰ってきた」
 この中には沢山の情報が含まれている。(自分語りでは前提状態や終了状態はしばしば簡略化される)
 こうした、出来事を言葉で伝えあうことが、より本来の物語のはじまりであっただろう。そして、話を盛ったり、ウソをついたり、あるいは空想を交えたりしながら、物語は発展していった。

 その歴史的積み重ねのうちに「おもしろい話とつまんない話がある」と判ってくる。

 人間には個人差があれど探求の本能があるから、好奇心や想像力を刺激される情報であるかどうか(既知であるか)、というポイントはすぐに思いつくだろう。

 

 だが、もっともっと視聴者がのめりこむ部分があった。
 娯楽の少ない時代に、この要素は人を熱中させ、中毒にするレベルの力を持っていたと思われる。
 それが、感情移入と追体験である。(一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだった)


 感情移入、とは何か

 長い間、物語や劇作の重要事は「視聴者の感情を激しく揺さぶる」ことだった。
 そのために最も有力な方法が、感情移入である。
 視聴者が作中の出来事を”自分事”としてシンクロし、烈しい戦いや激動の恋愛を体験した気持ちになり、感情を満たす。      

 人間は感情の生き物。感情が動くと、それだけで充足感を得る事ができる。
 だから、大概の話は「目新しい事物を出して興味を引き、わかりやすい恋愛などの話に落とし込む」構造になっている。(今でもそう)
   
 ギリシア悲劇の時代。職業としての劇作家は、プロの演者とともに観客を魅了するため、その頭脳を最大限発揮した。
 大衆を熱狂させたシステムは、カタルシスアリストテレスが言ったらしいよ。★
 観客の鬱屈を、劇中の感情移入を用いて高揚させ、悲劇的結末によってそれらを一気に崩壊させる。
 歴史の中で、物語の娯楽的性格の分析と凝縮が行われた結果、ギリシアではすでに、感情移入と物語の効用が、政治的に利用されるまでになっていた。
   
 しかし感情移入は、あくまでも「視聴者の感情を揺さぶる為の最強武器(人権環境)」
 それ自体が目的ではない事に注意する必要があるし、感情移入できない作品はクソ、とか言うのは逆に恥ずかしい。
 原価厨とかコスパ厨、環境構築に課金できない奴は論外とか言ってるやつに近い。
 後半また言及する。


  異化効果


 娯楽が少ないうちには、感情移入で人の心をがっちりつかめばその作品は、「優れた娯楽」として、誰にも長く語られる名作で居られた。
 しかし、システム化が進んだことで(あるいは社会が発展したことで)楽しめるけど何にも残らない娯楽作品が世の中にあふれるようになってきた。
 物語は、人々を一時的に慰めたり勇気づけたりはするけれど、役には立たない。
 だが、物語の効能は、感情移入だけではなかったのではないか。

 

 ブレヒトと言う人が、異化効果という事を言い出した。叙事演劇を標榜した。
 三文オペラでは、辛い展開の後、唐突なご都合主義のハッピーエンドで終わる。
 そして最後の唄では
「ちょっとくらいは大目に見ろよ、世の中はあんまり寒いじゃないか、この世界の谷間には、嘆きの声が響き渡ってる」と歌う。(意訳)
 視聴者は??? と思いながらも、その歌詞を意味を、劇場から出たときに知る。
 そういえば、現実もひどいことばっかりだ、寒い世の中とはこの現実のことなんだ。嘆きの声を私たちは、聞いているようで聞き流していたのだ。そして、芝居と違ってこの世界には都合のいい救いなんてないんだ……

 つまり、劇がただ感情を充足させておしまい、という消費のされ方をするのでなくて、この現実世界を捉えるための考えるきっかけを与えている。

 

作品を見る事で「新しい視点」を視聴者が手に入れる。これが異化効果。


 ブレヒトは、第四の壁の提唱者でもあるらしい。★第四の壁って何? 第一~第三の壁は何?
 実は、古い演劇は様々な要素を雑多に含んでいた。だが、時代とともにそれが洗練されると同時に形骸化していった、と、ブレヒトは考えたのだった
   
 高畑勲はこういった理知的な劇要素をアニメーションに持ち込んだ。
 火垂るの墓の過去のインタビューで、兄の振る舞いが自分勝手に思えるような時代が来ることを予言していたらしい
 作品の方が、視聴者を図っているような、そういう視点を持っていた。
 社会と作品との関係性を強く意識していた。   


  分析的に有名な二つの例を挙げたが、結局何がなされれば理想なのか


「人を感動させたい」「人を絶望させたい」「楽しませたい」→「人の感情を動かしたい」
「人に新しい物事の視方を提供したい」
 目指すことは立派である。理想はそれぞれで良い。
 だが、物語そのものの本質的価値は「人の感情を動かす事」にあるのか?
 つまらない作品は、存在してはいけないのか?
 商業では、あくまでも商業的な理由を外部要因として作品が生産されうる
 つまらない作品にも、商業的価値が存在する

 個人製作はどうか?
 お金のためならばそれはそれでよい。また、自己充足的な作品づくりも一つの在り方だ。
 だが、あくまで他者に発表するときに、その作品がなにを成し得れば、我々は満足と言うべきなのか
 視聴者の受け止め方は指定できないし、作者の理想も様々。
 古代の物語へと立ち返ってみよう。

「ここからまっすぐ進んで、向こうの三本の木を過ぎて大岩の方へ曲がると、急に崖になっている箇所があった。一瞬空を飛んだかと思うような高い崖で、危うく落ちるところだったが、無事にこうして帰ってきた」
 ここに含まれるのは、
 地理情報、好奇心の刺激、感情移入、危険の指摘、自己の強さの誇示……
 これによって感情移入も行われうるし、物語を追って聞くことで、現実の地理情報が塗り替えられ、そこからの連想で、現実に対しての新しいものの見方が提供されるかもしれない(異化効果)
 話し手が無事帰ってきたことが称賛されるかもしれないし、逆に闘争心を掻き立てるかもしれない
 洗練されていない物語は、様々な要素を最初から豊かに含んでいる。

 

 プレーンな出来事の記述(叙述)でも、「発することによって、何か が伝わる」

 

「よう」と「ごきげんよう」 挨拶一つでもなにかが伝わる。声のトーンや言葉遣い。
 極めて短いコミュニケーションでも成り立つこと
「発することで、何かが伝わる」物語表現は、人間にとって決して特別なことではない。


【物語は、「出来事の記述・叙述」で「何か」を伝えるという、ありふれたコミュニケーション行為の一つ】であり、重要なのは、

 そこには表現の妥当性はあっても、そのやり取りによって表されるべき理想的な何かなどは、本質的には存在しないということ。
 (挨拶によって表される理想的な何かとは???)
 物語は、すべからくこれを表していなければならないとか、こういう要素がなければ物語とは言えないとか
 ××を成し得ている物語は理想的である、とかは、個人の理想像でしかない。


 すべての前段階として、我々は何かが伝わる出来事を選んで、記述するところから始まる
 そして、それは自分の好きに選んでよいし、その記述はどれだけ簡素でも良い(自分一人で作る場合は) 
       
 相手にどう受け止めてほしいか、という意識は、自分の理想に従って物語を演出するところから始まる

 

以上を原則論として

プレーンな物語

 話をシナリオ論に戻そう。とにかく最低限のシナリオとは、
 他者に何かを伝えるために、出来事を、前提・駆動・終了の三形態で記述したものである。
 そして、それ以降の発展は全く自由で良い。
   
 ただし、これではあくまでプレーンな記述形態でしかない。
 ここからは、それを自分の造りたい形態や、伝えたい物の照準を絞るために、どのような技術があるかを考える。
 先ほどまでのはプレーンなパンの話。
 甘いと思わせたければあんパンを、昼食に食べてほしいと思えばサンドイッチを作るように、高度なシナリオは「出来事の記述」と言うパンを様々に味付けすることで成り立つ。

 そして最終的には、映像や役者さんの演技と言ったメインディッシュや付け合わせ、ドリンクを添えて、出来の良いディナーないしランチに仕立て上げるのが、目的となる

 このとき、シナリオはあくまで一つの要素であり
 例えば映像美があまりに斬新でビビッドであれば、シナリオはむしろプレーンな方がよい場合もある
 ベテランの役者さんのキャラクターの解釈が、シナリオの想定を超える場合もある
 最終的に素敵な食事を提供することが必要なのであれば、その時のシナリオの立ち位置は折々変わる
 シナリオに正解はないし、場合によっては途中で変化もするものだ
   
 高度なシナリオ、すなわち方向性を持ったシナリオを描く、という事は
 最終的な出来まで見通してシナリオの立ち位置を決めるという事でもある
   
 アマチュアの場合は、他の料理もみんな自前で揃えていくことになる
 最終的に作り過ぎで胸焼けする料理がテーブルから溢れんばかりに乗っている
 そういうのもアマチュアの醍醐味だ
 パン自体は向こうが透けるくらいうっすい食パンなのに、一緒に出てきたスープがとんでもなくうまい。これも面白い(孤独のグルメドラマ版)
 アンバランスな面白さは、アマチュアの特権。恐れる必要はない。
   
 もちろんプロのようなまとまったコスパの良い食事を提供したいのなら、勉強することだ
 プロの用意した食事を、料理ごとに分析してみよう。
 説明はどうやって行っている? 台詞の分量は? 間や演技は何を語る? キャラクターの分配は?
 劇場版CLANNAD とTV版
 劇場版ガルパン 劇場版まどマギ反逆の物語

 

 もちろん想像力を発揮しながら、テキストをかくのが一番の練習になるが、
 絵が浮かびにくく、努力が好きなタイプの方は、あるお気に入りのシーンを言葉で分解して、文章化し、どこまで言葉で書けばこのシーンを構築できるか、感覚をつかむのもよい
 そして、自分がどんなディナーに客を招待したいか、それを見通して、料理をそろえていく。   
  
 さて、テーブルの仕上がりを意識するとなったら、ここからは演出や、映像表現、芝居、それらを考えながらシナリオを描くことになる
 なので、ここからの話は厳密なシナリオ論ではない。特に演出と深くかかわる部分がある


  言葉のリズム

 シナリオは言葉で書かれる。しかし、ストーリーボードという手法もある。
 どちらがよいかは個人で選べばよい。ここでは主にセリフの書き方について話す。
   
 個人的な経験から言えば、シナリオ先行で描くと、細かい指示内容や、思想的な一貫性、厳密な伏線などは台詞によって補間しやすく、まとまったかっちりとした、いわゆる立派なシナリオになる。
 また、強い感情の込められた文章は、長く律動感があり、パワフルに響く。
 いわゆる名ゼリフは、こういった長いセリフに従った、感情の高ぶりから生まれる事がままある。
 視聴者にとっても長ゼリフは、共感を寄せていく段階が丁寧にあるので、感動しやすい。
 が、一方で、一文が長くなりやすく、説明台詞や長セリフを演出で誤魔化さなければならない場面が頻出しがち。
 映像をどう流して行くかを常に考えなければ、退屈な画面の連続になりかねない。
 せっかくの感動のシーンまで、観客がついてきてくれなければどうしようもない。
 シナリオを描き上げてから、映像にするまでに一旦それを解体する必要を感じる事が多い。
 演出に関しては、出崎統新房昭之新海誠などが参考になる
    
   
 一方で、ストーリーボード先行で書く場合、セリフは短く、画面と連動した躍動感を得て、ぽんぽんと進む軽快なリズム感を得る。
 また、長ゼリフでメリハリをつけやすくなり、映像全体の流れに大きく関与する。
 一方で、説明不足になりやすく、感情の流れに十分な補間がなければ、観客を置き去りにした唐突なセリフが飛び出す。
 また、絵を描いたり、頭に浮かべられないと前に進めない、という問題もある。
 なので、一度ストーリーボード先行を試してみて、言葉のリズム感を掴んだのち、流れの必要な部分でその感覚を用いるハイブリッドな用法がよいと思う。
 高畑勲富野由悠季宮崎駿などが参考になる
   
   
   例文1
   プレーン
●「敵を補足しましたが、相手はまだ私たちに気づいていません。戦闘には弾薬が足りないため、迂回してから目的地に向かって北上します」
★「悔しい、この船が万全なら負けない相手だった」
   
   長ゼリフ
●「1時方向距離230、敵の追撃部隊は我々にまだ気づいていないものと思われます。これより航路を反転し、迂回路を取って再び北上します。現在の魚雷装弾数では、会敵の際、生存率が極めて低いと考えられるため、退避を優先します」
★「残念だな。この船が本来の性能を発揮できる状態なら、奴らを翻弄できたのだが」
   
   短いセリフ
●「敵は?」
★「まだ距離あります、230」
●「弾は?」
★「残弾2発」
●「チクショウ! まともにやり合えば負けない相手だ!」
★「迂回して北上します」
●「大丈夫なんだろうな」
★「まだ気づかれていませんよ、上手くやります」

   


   例文2
    プレーン
●「何を怒っているんだ?」
★「ユーベンスという名の友人に裏切られて、俺は怒っているんだ」
   
   長ゼリフ
●「まったくわからないな。君がそれほどまでに怒って見せるなんて、少し取り乱し過ぎじゃないか。一体何があったんだ」
★「ああ、君なら分かってくれるだろう。そうとも、君以外の連中は全くわからずやだ。知っているだろうユーベンスのことを。僕の友達だ……いや、友達だった。大切なね。だが彼は、僕の心からの親切をフイにしたばかりか、その後ろ足で泥までかけて見せた。全く! 邪悪というのはああ言う奴のことを言うんだ、恩知らずだよ。僕がどれだけ彼のことを心配していたか……赦せない……許せないな!」
  
   短いセリフ
●「どうした? 震えてるぜ」
★「赦せないのさ」
●「何が」
★「ユーベンスが俺を裏切ったんだよ!」
   
  
   例文3
●「世界の終りだ、もう誰も助からない」
★「大丈夫です、信じましょう。愛がみんなを救うでしょう」
    
    長ゼリフ
●「見ろよ……空が黒雲に覆われて真っ暗だ。太陽が燃え尽きるんだ……この地球上にいるものはみな等しく滅び去る運命なんだよ……!」
★「……それでも、私は信じてみたいと思います。この地球が私たちの母なる星であることを。そして、その魂が私たちを救い給うことを……それはこの星の誰にも等しく降り注ぐ施し……そして、私たちもまた、その慈しみにみたされて育った、この星の全ての子供たちであることを……信じて、祈りを一つにすることで、私たちにもその力がある事を、私たちが大いなる母の力を受け継いでいることを、今こそ示しましょう!」
     
     短いセリフ
●「クソオオッ! 俺が仇を討つ!」
▲「よせ! ……もう無駄だ……」
■「……終わりだあ……」
★「……信じましょう」
●「信じるって! 今更何を!」
★「……まだ聞こえる……鼓動の音……勇者様!」

 


  ドラマを超簡単に作る方法

 ドラマとは? 
 高橋いさを 「葛藤である」
 木下順二「天命と人間が対峙した瞬間」
    
 単純化すれば、「対立、対峙はドラマの芽である」
 短いシナリオレベルでも、とにかく対立させてみる
    

●「きっと私は、ここで脱落するって決まってたんだよ」
★「……うん……」    
    

●「きっと私は、ここで脱落するって決まってたんだよ」
★「……そんなことないんじゃない?」

    
●「取舵一杯っ!」
★「いーや、右だね!」
●「なんだとっ!?」
    
 言葉の上であっても反発、対立には理由がある。
 理由が、キャラクターとともに対立という形でぱっと光が当たる。
 そのキャラクターの思考や、関係性がぐっと深まって見える。

 凸凹コンビがおもしろいのは、対立しながら、お互いの深い所をさらけ出すからだ。
 ずっと自己紹介をしてるようなもの。
 また、感情のボルテージが上がりやすく、展開的にも切り返す感じがあって人を驚かせる。
 流すところとのメリハリをつけて使う。   
 


  感情移入の作り方  

 そもそも、感情移入っていうけど、だれの感情が何にどこまで入ることを言うのか?
 よりもいのクライマックス、泣くけれども、それは、キャラクターが哀れでいじらしいと感じるからだ。
 別に自分事と感じた訳ではない。でも、それも感情移入だろう。
 自分は成人男性として、想像力で以てその物語の中に立ち、キャラクターを後ろで見守るような心持である
 だが、キャラクターと同じくらいの年齢の子供なら、物語中の自分の立ち位置は変わるだろう
 もっと小さければ、なぜ自分よりも大人であるお姉さんが泣くのか、仕組みも分からないであろう
 母を亡くした友人と、自分とで、移入する対象も違う。
 友人はその出来事によって、自分がその体験をしたように共感するだろう。
 この共感する、と言う言葉も怪しい。何となくわかる、と言うところから、まったく同じ感覚を幻覚するまである。
 感情の流れを破綻させずに伝える、という事と、感情移入は峻別されるようだけれど、単なる説明にも感情移入は発生する
 なんならキャラクターのなんの意図もないような一言が、急に胸に迫ってしまうこともある
   
 正直な話、感情移入とは、感情の流れを丁寧にたどれば、ある程度勝手に達成されるものである気がする
 そして、実はその正体は
「あるキャラクターの心の開示の瞬間を、視聴者の記憶を刺激して想起できる形で表し、視聴者に、そのキャラクターを理解した、心に触れたと感じさせること」
 なのではないか。

 

 あるキャラクターに対して、理解することを許された。
 相手と自分には心理的共通点がある。相手を自分の価値観で考えても大丈夫だという信頼・安心が、すでに読者の中にあり(キャラクターの行動が視聴者に理解できた積み重ねによる)その上でキャラクターの感情を暴露するような象徴的な出来事が起き、それが視聴者自身の経験と相似していた場合、自分の感情をもとに、心の中に仮想的に「キャラクターの感情」を作り出す。
 造られたキャラクターの心理には、裏に実際の答えはない(Vtuberとかにはあるけど)が、事象と流れと、感情的符号で以て、その働きを引き起こさせるのだ。
 だから、感情移入と言うよりは、「共鳴式心理創造」とでも言うべき方法論ではないのか。
   
   お手軽感情移入の方法

 何かを抱えているキャラを用意し、作中その抱えているものを小出しにする
 この時、キャラクターの目的や行動に整合性を持たせ、このキャラクターの行動や思考がある程度わかる、と言うところまで持っていく。
 キャラクターにとって重要と思える象徴的な出来事を起こし、それによってキャラクターの心理を開示する
 この心理は、想定する視聴者の経験していそうなものにする
 これによって視聴者の経験をもとに、視聴者の心の中に「キャラクターの感情」が作られる。


 
 目的学園の生徒たち

 キャラクターには目的を設定しましょう、ってどっかで読みませんでした?
 誰かの目的を聞いた瞬間に、その行く末が気になりますもんね。
 だからそれを読者にちゃんと開示しましょうって、聞いたことありません?
 それを出てくるキャラみんなに適用すると、すっごく便利です。
 あるキャラの目的が達成されたりされなかったり、葛藤したり喜んだり、これを複数キャラで次から次へと繰り返せば、面白さがずっと継続する。ちゃんと説明済みで順を追えば、感情移入もずっとできる。
 だからできるだけ早い段階で、出来るだけ沢山のキャラの目的を設定して、それを説明しておきましょう……
 迷ったり、無駄な動きをしたり、理解できない行動をしたりする、人間って結構無目的だ。あるいは無目的な中から、徐々に目的を見つけていく。ホントはそうだけど
 でも、そんな無駄な描写をされてもね、今の読者って忙しいんですよ。
 効率的な物語論、すごくたくさんあると思います。総動員して読者に喜んでもらいましょう。
    


でも待って? 本当にそれでいいの?

 技法は世の中に腐るほどある。自分の提供したい物をイメージし、うまく使いこなすことが大事。

 

 
最後に アマチュアイズム

 ここからは完全に主観的な話。

 物語として語るべき何かなどないと言った。物語は器だ。物語と言うだけで何かが決まることはない。
 外枠としての技術論や方法論や、固定観念があるだけだ。
 無論、その外枠を組み合わせて、出来の良い作品を仕上げて人の称賛を得るのも(やれるなら)悪いことではない。
 パズルでお金が貰えるなら、何よりと言う人もあるだろう。
 それは否定しないし、そうやってつくられたものにだって外部的には価値があり、時には人を救いさえするだろう。
 必死にやるから偉いなんてこともない。
 創作しなくても死なないし、ゲームも漫画も、アニメも小説も、一生読み切れないほどあふれている。
 車や釣り、スポーツと言った娯楽もある。恋愛や家庭に生きがいを見出す人もいる。
 金を稼ぐという行為に没頭する人もいる。
 自分の創作はそう言うもののうちの一つだろうか? 自分はなぜ創作をやるのか良く問うてみるといい。
 技術に優れ、なまじ人の騒ぐものを作れてしまい、じぶんが何をやりたいのか、本質的に何を考えているのかを見極める前に消費され尽くしたり、飽きて止めてしまったりする人が沢山いる。
 でも、それ自体は悲しいけど、悪いことでもない。変に入れ込めば狂いかねない。

 創作という行為を通じて、誰かに何かを伝えたいという欲求があるか。
 価値を届けたいという欲求があるか。
 もしあるならば、技術や巧拙に囚われるのはもったいない。
    
 始まりの欲求がどこにあれ、同じ物語を作る行為であり、外部的に見れば出来上がったものに差異はない。
 そこに優劣を決められる人もいない。

 ただ、作者だけが、その器に価値を注いだと知っている。抽象的な言葉なら、愛と言ってもいい。
 そして、読者にそれを見つけてもらうのを待っている。

 読者が、まるで古代の語りのように、目の前のだれかとの対話のように、物語を生々しく受け止める事ができたとき、愛を受け取った時、作者と読者は、極めて特殊な関係性で結ばれる。


 そして、注ぐべき価値は無限に自分を振り返り、問い続ける事でしか、定まってこない。
 長い長い時間がかかる。人生の状況やタイミングによって変わることもあるだろう。
 それでいい。
 アマチュアイズムはまさに、人生の瞬間瞬間に器に注がれた自分自身だ。
    


 物語は自分から生まれる。そして、誰かに伝えられる。
 どんなときでも、物語とは、出来事を語ることで何かを伝える、シンプルな行為であることを忘れずに
 作品は出来上がった瞬間独り歩きし、後は数字でしか追えなくなったりする。
 自分の喜びとして創作を続け、それによって自分を育て、自分の人生を救うために。
 声が誰かに届くことを信じて叫び続けるしかない。
 だけれど、焦ることはない。
 人生は長く、振り返ればこれまでの自分がすでに後ろに豊かに実をつけているのだ。
 そしてそれは、生きる限りずっと育っていく。
 忘れず、それを見つめて、上手く摘み取って熟成させれば、創作は一生の楽しみになる。
  
 創作の原初に立ち返って、勉強したり、快感に身をゆだねたりしながら、無理なく、自分の行きたいところまで行きましょう。
    
    
    以上