天気の子の感想と、セカイ系とかゲーム版とか、あと大人と新しい人たちについて


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 以下の記事にはネタバレがありますので、見てから読んでください。ほんと。お願い。

 

 

 天気の子を見てきました。

 単純な感想で言えば、

「超乳絵師だと思ってフォローした人が、何年か前にTVアニメのキャラデザやって「へえ~こんな絵も描けるんだ、やっぱうまいなあ!」なんて感心してたらLOで傑作描いてきた」

 みたいな感じです。判ってくれる人だけ判ってくれれば良いです。

 

 

 さて、僕がこの作品のついて感想を書く前に、言及しておかなければならない二つのワードがあります。

 それは、「セカイ系」と、「ケツイのコンテンツ化」です。

 要するに僕は、今まで考えてきた二つの論に基づいて、この作品を見ていたのです。もっと頭空っぽにして見たかった。勿論以下の感想もその軸に囚われていますので、もっと自由に見ろよ、という指摘もあるかと思いますが、まあこれも一つの見方という事で。

magenic-cafe.hatenablog.com

magenic-cafe.hatenablog.com

 

 以上の二つの記事は、読んでもいいし、読まなくても良いです。(読んでくれるととっても嬉しいです。長いですが)

 ごくごく簡単に説明すると、セカイ系とは、オタクが自らの迫害を聖典化してカタルシスを得た古のジャンル。

 ケツイのコンテンツ化とは、ゲームにおいて、プレイヤーの主体性を単なる選択肢と言う行為に落とし込む際、その選択する行為の意義を極大化する為に、主にノベルゲー(特にエロゲ)で発明された方法論。

 

 と言ったところです。

 もうすでにタイトルにもあるとおり、ケツイのコンテンツ化、という考えには、深くエロゲが関わっており、それを以てこの映画を語る以上、エロゲ版天気の子について語るところから始めた方が良いでしょう。

 

・エロゲ版天気の子

 まあ、詳しい事は、そういう印象を得たという人たちが色々書いてくれるので、そっちを読んでもらいましょう。ぼくも、視聴前にそう言った論調を少し見てしまい、影響を受けています。

 

cr.hatenablog.com

 

 まあ本当に、ちゃんと一つ一つ、悩み、逡巡するシーンが描かれているんです。そのわずかな間に、エロゲオタである僕らは選択肢を幻視してしまうわけです。あと話の展開ね。主人公の価値観と通ずるヒロインと突然出会って、そこから仲良くなっていくんだけど、肝心の所でヒロインは消滅の危機にさらされて、それをどうするか、一番大きな選択を主人公は迫られる……

 何で鳥居に飛び込めば解決しちゃうんだなんて野暮なことです。彼はもうそこまで決断したので、それには報いが来るのです。

 公式が「選択」の物語だと言ってたことを、僕は視聴後知りました。キャラの名前が思い出せなくて公式HPを見たのです。

 

・選択の極大化

 選択をする、という事で問題が解決してしまう。そんなことはご都合主義です。むろん、その批判は正しい。けれど、この作品(そして様々なゲームにおいて)は、選択の極大化を行う事によって、その批判を回避しています。

 

1.選択に対して責任が生じる

 +の事だけでなくとっても困ったことが起きます。そして、それは主人公にとっても悩ましい事としてとらえられます。これによって、そんなに都合のいいことが起きたわけではない、と言う印象になります。また、それだけのことを選び取ったという、意志の強さの証明にもなります。それだけ意志が強ければまあ、通ずることもあるかなあ、と、優しい人は思います。

2.主人公の希薄化・選ばざるを得ない選択肢の提示

 のちの、「違和感」でも触れるのですが、主人公とっても素直で、優しくて、一生懸命で、真面目ないい子です。誰も嫌いになりません。そして、起こる出来事がとってもスリリングで、選択の余地があんまり有りません。それを素直に選び取っていきます。そうだよね、って思います。一体次は何が起こるんだ~ みたいなのがあんまりありません。ストレスフリー。まるでジブリアニメ(主観)の主人公みたいです。

 その結果、いつの間にか、主人公と視聴者が、同じように選択を追体験しています。なぜなら、視聴者は違和感を感じないことによって、主人公の行為に無意識に承認を与えているからです。

 ですから、いざその荒唐無稽な瞬間があっても、彼の選択を支持しやすくなっているのです。そうするしかないよね~ 私もそう思うもん。と言う風に、本当にうまく持って行っています。

3.ラストに、主人公の選択及び、選択する行為を肯定させる

 まあ、エンタメとしてはそうあるべきなんでしょう。一緒に選択してた視聴者もにっこりです。エゴだけど、それでいいんだと開き直らんばかりの終わり方です。

 ですが、この作品において、選択することを肯定しなければ、作品の根幹が崩れてしまうので、選んだあなたはエライ! としておき、あー良かった、あの時頑張って。と、振り返って自らの行為を肯定することで、その選択そのものも、まあ、結果オーライだよね。となりやすい訳です。

 

 ちなみに、上記の選択の極大化は、かのUndertaleなどでも使われている技法であり、またそれは繰り言ですが、日本のエロゲ系文化にも顕著にみられる技法です。

 

・違和感

 いままでの新海ファンになんとなーくピンとこない部分。 

 

・ヒロインが年下

 何と年下(同世代)キャラのツボ、「相手が自分と同程度、あるいはそれよりも未熟な面を見せ続けてくれるので、何か安心する」

 

www.youtube.com

 

 を使ってくると思いませんでした。ラストシーン。あれは救われちゃう。

「大人にならなきゃいけないのかな? でも一番大切な人はまだあの純粋さ、未熟さのままでいてくれた! そして彼女は俺とおんなじ気持ちでいてくれるし、俺の感覚間違ってないんだ!」

 すごい肯定感。もうあの時とは違うのよ、とか絶対言わない。

 しかも、キミとかって偉そうな生活力ある中学生とか、もう何なんだ最高か。

 

セカイ系のようでセカイ系じゃない

 世界や社会を否定してないからね。いや、否定的に描いてはいる。確かに描写される、「大人のセカイ」との対立は極めて明確だ。けれど、その世界と決定的に決裂はしない。明確な抵抗の意思を示し、その上で、水没しても人の生活が描かれてつづけていて、世界がわの強靭さが示されている。

(もっと判りやすく言うと、対立する大人のセカイは絶対的なものとしての世界と一致しないのである。ここが決定的にセカイ系とは異なる。大人のセカイは大人のセカイ、主人公たちのセカイは主人公たちのセカイ、そして実世界は自然の司る世界として超然とあり続ける。

 いわゆるセカイ系は、これらが混同されてメチャクチャに入り乱れて闘争する中に、ヒロインという絶対神を据えて戦い抜く聖戦士の姿を描いたものと言える。

 そして、もしかしたら若い世代には冗談に思われるかもしれないが、ほんの四半世紀年前まで、個人や社会や自然と言った価値観は今以上に混同され、訳の分からないセカイとして、アイマイなまま絶対視されていたのだ……)

 ヒロインも、君の価値観は正しいよって肯定してくれるところはまさに、セカイ系ヒロインだけど、それが世界と決定的に断絶はしていない。まあ、悲しんではいるだろうけれど。

 内的な価値観が、世界に泡のようにバラバラに存在できるんだ、と言う、多様性の姿を描いたようにも見える。そして、それが個人と社会とが激しく相克していた平成初期なんかと、隔世の感を与えるのだ。

 

・絵が何か平たい

 セカイ系の特徴であった、主観によって描かれる世界、じゃないよね、今回。悪く言えば、それぞれの画(特にレイアウト)が客観的で面白みがないし、演出も、ここぞ知れ俺の衝動、と言うよりは、そうなるからそうなるって言う感じの、当り前な感じ。感情の高ぶり? じゃあ雷だね、発砲だね、といった、とてもドライな感覚。

 新海監督が叙情作家であると言われて、絵からにじみ出るんだよねー、と言った感じがあんまりない。相変わらずキレイではあるけど。

 これは先述の、主人公を希薄化するための方法論なのではないかと、勝手に思っています。絵に余計な主観が載ってないから、視聴者が主人公の選択する姿をストレートに享けることができる。主人公は割と何にも語られないし、何か抱えてるんだか全くわかんないし、でも、それがとにかく、他人として一生懸命動いてる姿を見せる、それを客として応援するという構図が、おそらく必要だったのだろう。

・2011年と三年前と新しい世代

 さて、君の名は大ヒットして、その次どうしようかな、と考えたはずなのです。その時に、選択を中心に据えようとしたのは一体誰なのでしょうか、僕は知りません。

 けれども、この判断は極めて時勢を捉えていると、思ったのです。

 最近いい歳になってきて思います。昨今リバイバルだの、僕ら向けの作品が闊歩しているけれど、それより上の世代の作品は、あまり見られない。それと同じようなことが、きっと、5年後10年後に起こるだろう。

 その時僕らは完全に、市場としてもロートル化する。おそらく僕らが見るコンテンツ市場は、驚くほど姿を変えるでしょう。その断絶感に乗り遅れたくないと、いつも思っています。絶対に、ぼくら向けでない時代が来る。

 市場には、どこかで見たような作品が、しかし若い世代にとっての新しいものとしてあふれ、それにうんざりしながら、新しいおもちゃも与えられず、結局過去の自分に回帰していく。(その時僕らは、幼児性を抱えたオタクから脱し、大人のようにふるまうようになるのかも知れません。ぼくらは若い人たちの感性やコンテンツを陳腐、下らない、青いと言って否定し、「大人のセカイ」に引きこもるようになる(ように若い人たちからは見える))

 消えてしまわないコンテンツ、あるいはその製作者となるために、やはり常に若年層に働きかけて行かねばならない。

 「天気の子」には、そんな明確な意図が働いている気がするのです。

 だから、この作品に大上段から構えても、肩透かしを食らう気がしているのです。新海監督が常々、少年少女向けジュブナイルをやりたいんだと言っていた、その面が強く押し出されていると考えられるのです。

 もしこれが、超美麗なだけの「コドモ向けアニメ」だったとしたら、それはそれで大変贅沢なことです。もちろんそうでないだけの骨組みがこの作品にはあり、それは明確に意図されて組み込まれています。

 とはいえ、今回の論旨はあくまで2つに絞ったので、あくまでその視点は崩さずに行きましょう。

 前掲のセカイ系についての考察に基づいて、なぜセカイ系が衰退したのかを考えると、

・社会の価値観の多様化

・オタクが迫害される存在でなくなった

・鬱屈とした自らの正当化より、より具体的な問題の解決が好まれるようになった

 などの要素を見出すことができます。

 シンゴジラが称賛されたとき、しきりに「ちゃんとみんながやるべきことをやって、何かを解決しようと対応しているのが素晴らしい」と言われていました(意訳)。

 けど、シンゴジラは多分ウソです。もっと邪魔で、無能で、下らない人間が、政府にだって沢山いるだろうし、でも、それは創作上の理想として排されるべきだ、となったわけです。

 その傾向はおそらく、徹底した個人主義からきているのでしょう。自己責任論や生産性云々からこちら、国が右肩下がりな状況で、いつまでもメソメソしているやつは邪魔だと、感じられるようになっている。

 人間の理想的な姿は、解決を模索し、文句も言わず運動し続け、物事を導く主体性を持つもの、となってきた訳で、当然「天気の子」は、そういった態度を称揚する映画です。その結果として、東京が水没しようが構いません。

 いいんです。彼は選択したのです。そして、彼なりに一生懸命誠実にやった結果があれだったのだから、それは肯定してあげるべきだと言うわけです。

 

 君の名は、は、2011を受けて盛り上がった「絆」の称揚の物語でありました。敷衍して考えれば、それ以上の何かを見出すに至らなかった。あるいは、それでも十分な到達点と認識されていた、と考えられます。

 絆があれば、死んだ人間が生き返ったっていい訳です。

 新海監督のインタビューで、監督がその批判、つまり「災害をなかったことにした」という批判を、わざわざ心においた上で天気の子を作ったという言葉を考えると、「絆」の次を考えなければならなかった、その際に、2016以降様々な課題が顕在化し、絆と言う言葉が空疎化する中で、今、そしてこれからの理想の姿として「選択し続ける」人間を描いた、という事は、きわめて自然に思えます。そして、その際に選択によって世界の方が損害を受ける、けれどもそれを肯定する、と言う姿勢には、間違うし、うまくいかなくても、僕らは選択し続けなきゃいけないんだ、と言うテーマが見え隠れします。

 

 そして、

 

・自らの選択への確信

・選択によって起こった出来事を受け容れるだけの覚悟

・選択を肯定してくれる人

・選択を責め立てない世界

 

 それらがラストシーンには全てそろう。

 だから、僕らは

「選択しても大丈夫だ」

「前に進んで大丈夫だ」

「やれることを一生懸命、わかんなくたって大丈夫だ」 

 あれが僕ら(或いは、大人でない新しい世代)へのメッセージでなくて何でしょう。世界はそうあり、そうであるべきだ。ぼくらはそうした世界で、理解者を得て、エゴの責任を背負いながらも胸を張って前に進むべきだ。

 それが、2011から絆を乗り越えた、徹底した個人主義の帰結としての2019の世界であるべきだ。

 そんな明確な一点を見出すことができる気がするのです。

 

 まとめると、「天気の子」はセカイ系のフォーマットを援用しながら、次世代の個人主義の在り方を肯定すると言う、いっそセカイ系とはまるで逆のことを描いた、やや応援映画的な(つまり、観客すらも相対化した)様相を帯びた娯楽映画だったのであろう。

 

 

 以上、取り急ぎだけれども、言いたいことが沢山あってまとまりのない長文感想でした。最後まで読んでくれてありがとうございました!