創作+αの色々Ⅱ
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昨日の続き、古いツイートのまとめです。
・抽象と現実と人間
リアルとファンタジーの、良いバランスの所に創作はあってほしいよねと言う、ごく当たり前の話があり。登場人物は、抽象的な人間の類型や解釈(イメージやパターン)と、史実や仮定された現実的行為(リアリティ)との間を行き来する、と。
「どう人があり得るか」と「どう人があったか」の、合間を振り子のように循環することで、物語は、観測者に未来を予見させつつ前に進んでいく。
— まフェ (@Magenic_Cafe) February 2, 2019
僕たちは類型や推測によって未来を想定する、そこに結果がもたらされて、僕らは納得したり不満を持ったり、驚いたりする。時系列を楽しむという事の原理。
・言葉のちがい
言葉を肉体の運動の延長としてとらえる人と、言葉の蓄積によって物事を見定めようとする人がいて、何もかも違いすぎて大体判りあえないと気付いたのが最近の知見。
— まフェ (@Magenic_Cafe) February 25, 2019
前者は舞台に、後者は映画に似ているのかもしれない。生身の肉体が発する言葉は理屈であれ肉体の活力の発露としてあるのがふさわしいし、後者は言葉の切り貼りと積み重ねによって何がしかを描出しようとする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) February 25, 2019
お芝居に関わって少しテキストをお手伝いさせていただいたのですが、映像との違いを実感したのでした。
・恋愛とは
恋とは親しさを求める衝動であり、愛とは、親しさに基づく行為を承認し合う線引きではないか
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 13, 2019
割と自分の中で結論がはっきり出ている。
より高位の、存在の相互承認へと進んで行く原動力かつ、性的本能と密接に連動する心理的作用を、恋であると言ってよいのかもしれない
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 13, 2019
恋が性的な様相を帯びるのは、存在承認において、相互の肉体的要素の承認も確たる位置を占めるからであって、精神における相互の承認と、肉体における相互の承認とが両立した状態が、もっとも容易でかつ安定した、社会内での個々の信頼状態であるから、と考え得る。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 13, 2019
いずれにせよ、相互の存在承認が、人間関係のきわめて本能的な欲求であると考えています。
・作品と地続き感とVtuber
路上ライブの音楽を聴いて、薄い口紅の老婆が、独り暮らしで淋しいからと、CDを買って行った。老婆の生活の中に、奏でる人と、その音楽が位置付けられる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
アナログな地続き感で、その人の暮らしまで感じるような、そんな出来事に遇するたび、私たちが成果物だけを享して人格を排してきた経過を思う。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
人と人とが理解し合うために、このアナログな地続き感は、極めて信頼性と安らぎのあるものだ。しかし我々はある時点でそのわずらわしさから逃れるように進んできた。特に、ワイヤードの世界ではそうだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
作者と作品を切り分け、自分と他人を切り分け、地続き感(関係性)を排して対象を正確に受け止める。これはある意味、理性的で、進歩的な態度と言える面もありそうだ。
老婆のミュージシャンへの握手の頼りなげなのを見て、深くその人を感じるように、今のYoutuberやVtuberコンテンツも成立するのだろうけれど、その時、誰かをコンテンツとして消費することについて、黙考すべき所がある。我々は老婆の背を見て、嗤うべきではないはずだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
人格と、コンテンツとの線引きはどこなのか。
これはコンテンツとして表層的に示されたものを容易に享けるなという事ではない。人格を極力伴わないコンテンツは大量生産の消費文化に基づき、これがまた改めて古くなろうとする中で、我々が価値として創作者等の人格を認める際に、その扱いを現今の消費文化の如く扱う事はしかるべきでないという事だ
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
ここまで考えて、結局無責任である視聴者個々人がそう易々と変わる訳はないのだから、結局最終的には、「コンテンツ化された仮想人格」が供給側から用意されるだけなのかもしれんね。そんでもってそれはもうコントローラーと仮想人格AIで済む話なのかもしれない
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
我々が、人格を勝手に想像する、そういった矛盾しない情報の寄せ集めなんかは、実際もう自動で作り出せそうな雰囲気だ。それに基づいて役者が喋ればもうそれで済むわけだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
ここでも、僕は無意識に、人格同士で行われるコミュニケーションを除外して考えているようです。あくまで一方向のコンテンツを想定していて、そこには当然、人が人である理由は(相対的に)希薄なのです。