ケツイをコンテンツにするという事


スポンサードリンク

  Undertale本当に面白いですよね。DDLC(DOKIDOKI文芸部)も。ストーリー構造になんだか日本のコンテンツめいた雰囲気があるなあと思うわけですが、その理由はここにあるんじゃないかという、推察です。

 話の発端は

 

であって、全然最近の話じゃないんですが、エロゲギャルゲ特有のドラマツルギー(話の運び方くらいの意味で使っています)ってあるなあと。

 

 同情の事については以前の記事で詳細に語ったので参照まで。

magenic-cafe.hatenablog.com

 プレイヤーたる自己の開示、とは、要するにプレイヤー≒主人公自信が、どう思ってどう行動するかという事をはっきりさせる、という事です。ギャルゲやエロゲでは、各ヒロインのルートに足を踏み入れるか否かの決断に象徴されるかと思いますが、過去にあった出来事や失敗を自ら認め、その上で、次の行動を積み上げようと決断すること、と大きくくくってもよいかもしれません。大体この最初の反省部分がないと、微妙なシナリオになったり、バッドエンドに行ったりしがちです。

 そして、その選択をしたという実感をプレイヤー側に持たせることが、ストーリー上重要なわけですが、

 つまり、プレイヤーが自らの過ちを認めるために、あえて目の前に弱った存在を提示している。こいつには攻撃されないという安心、あるいは同情心、あるいは逆に、そうしなければならない強烈な圧力がなければ、プレイヤー自身は自らの過ちを認めることに消極的であると。そもそも娯楽のためのゲームなのだから、自らが反省することがコンテンツというのはだいぶ倒錯しているのかもしれない。

 ここでUndertaleの話になるわけです。反省し、次の行動を選択せよと迫る。ケツイの構造は、プレイヤーを主人公とを同一化させることに腐心し続けてきたエロゲギャルゲの歴史の果てに生み出された方法論に依拠していると、考える事が出来ます。

 まあアケスケな話だけど、主人公が素直すぎると業が深くならなくなるので、ノベルゲーではプレイヤーの行動を大きく規定する以上は、多少拗れさせた分の補填をしないといけないのだろうと。 

 いずれにせよ、二つともゲームプレイの根幹に、プレイヤーのケツイを求めていて、これはゲームプレイにおける本質の一つ(何せ読んで選択肢を決めるだけでゲームとされる)であると言えるだろう。

 

 だからこそ、映像はいかにすればよいのか……ゲームも作ってみたいものだな、と思うきっかけでもあって、やっぱりUndertaleは素敵なゲームです。DDLCも。