長い愚痴。正義とか、正しさとか、そういう話
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自分がそう思うようになった経緯、他人がそう思うようになった経緯。自分と思想が違う人、年齢が違う人、違った人生を歩んできた人の来し方を思わずに、その有り様の価値を定めることは、苛烈さを伴う虚しい行為だと思うよ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月9日
こう、偏る人って、意味不明ってよく言う。文脈や、合間に語られなかった事象の連続性に興味が無かったり、受け流さないと処理しきれないような情報過多に陥ってる。素早い情報の取捨選択は現代的だけど、それでさっきの事すぐ忘れて、ツギハギだけで現実を作る人ばかりになると、本当に悲惨だと思う
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月16日
恐ろしげなものの力を背に負っているうちは、自らが強くなったような気にもなれるが、ある意味では、そうできるだけの鈍感さが、恐ろしいものたちの触媒でもあるのだろう。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月9日
批判する方も、行いを糾す批判と、世に問う批判とを混同すると大変なことになりがち。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月19日
さらに言うと、人同士が致命的なやり取りに至らず、集団の潰滅が起こらない様にする程度の最低限の倫理に基づく正しさと、自分の周辺の社会習慣や、過去の経験に基づいた判断と、思想に基づく峻別基準とを混同すると、もう地獄だよね。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月19日
見切り発車で物事を見定める、そのときに我々が無意識にも、空想と仮定とを大量に担保にしていることを忘れてはならない。たとえ一面の事実に依拠した発言であっても、それは容易に変形し、矛盾し、変化する。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月16日
論理だけで明確に答えが出るような問題でない以上は、語るなら人の来し方を思わねば、自らの好悪と態度以上に表されるものはない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年10月13日
一つのことにこだわり、情報を積み上げて真実の姿をなんとか定義しようとする人を、疎かにしてはいけない。その人は鈍いわけでも、時代遅れな訳でも、みっともないしみったれたケチでもない。そういう人から見れば、我々が拙速なだけだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月16日
いろいろな愚痴。
リスクがない方向ない方向と、何かが起こってから逃げるように考え始めるけど、どちらの道を進む内にもそれなりのリスクが常にあるから、大事なのはマネジメントしていくという意識なはずなんだけど、すぐどっちの道が正解だったみたいな話を……
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
「正しい」と言うより「善いことをしている」と言った方がまだ実態に近いし、さらに言えば「私は○○にとって良い事をしている」といった方がより正確で。もっと言えば「私は××の思想(or経験)に基づいて、○○にとって良いことをしている」と言ってはじめて、落とし所も見えるようなものだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月19日
守ることを正しさだと思うと間違う。自己満足に陥るから。救う事を正しさだと思うなら、まだまし。対象の他者が幸福にならなければ達されないから。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
宗教が絶望の淵で踏みとどまるだけの機能を有するのも、それを徹するためならば、納得できる気がする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
正しさの成す御業を、仮に正義の顕れたものとするとき、それは善悪の区分けとはまた別のものだと言う気もする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
いずれにしても、誰かを救うためにはあらゆる人間関係上の、精神的・肉体的困難に耐える必要があり、それを易々と徹する事ができる人などそうは居ないのだ。我の存在が救済行為そのものに依拠でもしない限りは、普通の自我にそんなことはできない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
守ることを正しさと言い、妥当なことを正しさと言い、導くことを正しさと言い為すのは、第一級の語弊だと判ずる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
守るために戦うのはもう自分の中では成立しないや。自分自身か、他人かを、救うために現実にぶつかっていく、その行為を戦いとするしかもうしっくりとこない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年12月1日
無自覚に、本能的に、欲望に従って奪い合うのは争いで、他者への不愉快さをお互いに発散し合うのは諍いだ。しかしその欲望が自己救済に寄与するなら戦いと言えなくもない。この辺の微妙なニュアンスは極めて私的な感覚の話だけども。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年12月1日
以前からのテーマの一つ。ヒーローでも、光と闇万能論から、守る力なら許される論がずっと展開されてきて、それがそろそろ限界かもしれんと感じ始めている。その先は何なんだと、自分に問うと、救うという事、しか残されてはいないのではないか。結局、光というのはそれを極度に抽象化したものだったろう。人を信じ、助けようとする姿はすでに描かれてきていて、だがもしかしたら、そこしか戻るべき場所はないのではないかという。
なんで宗教の話が一瞬出てきてるかというと、大杉漣さんの「教誨師」を見てきたからです。
大杉漣さん最後の主演作「教誨師」を見てきました。きわめて秀でた芝居とシナリオ。抑制された演出。矛盾塊の前で右往左往する姿を、視聴者という安易な姿でじっくり見られる幸福。狂気の淵での信仰という行為そのものの超越的な強さ、精神作用の不思議さを見る。 https://t.co/HUHgquxqOE
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年10月7日
それぞれの登場人物にほとんどドラマ的連携がないものを、うまく繋いで見せている。シナリオ、演出は元よりだが、そこに通底するある種の一貫性は、役者たちの一体感と、それを繋ぐ大杉氏の、迷いながらも確信的な姿。更に言えば信仰というものに対する彼なりの深い理解の上に成立していたと言えそうだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年10月7日
おすすめの映画です。