セカイ系についての考察の時系列


スポンサードリンク

 過去に僕が思考の対象としてきた、セカイ系における考察の系譜です。

 なお、ここで言うセカイ系やオタクなどの単語、および、それに基づく論はあくまで僕の雑多な感覚を表しただけのものです。他の方との定義が異なる面も多々あると思います。ご容赦ください。

 

 

 さかのぼれるだけのツイートから見つけた、最古のセカイ系への言及です。人生を十分に過ごしてきた人間同士の恋愛、あるいは過ぎ去った時間への執着などをまず思い浮かべましょう。

 つまり、出会ったときや、過ごした短い時間に出来事を凝縮し、人生における悲喜こもごもを一気に経験させる。あるいは、その二人がずっと暮らして行くという、予感上の未来を展開し、それをすでに体験したかのように錯覚させる。

 きっとこうであったに違いない、だから俺はこうするのだ、と決意する態度は、単に未来を想像するだけで起こるのではなく、その予感上の未来を、部分的にでもたしかに経験したからこそ、起こるものと言えます。勿論そのシーケンスに結構な時間を割いている作品もある。

 もちろんそれを後々裏切っていきます。ここから、少しセカイ系のものとは異なる話になってしまうのですが、まあ、話の運びもあるので、列挙。

 ここでは、ゲームにおける選択を、善人度の測量としています。何故、善き人である必要があるのか、そこは後半で触れます。お楽しみに。

 また話がセカイ系に戻っています、ちょっと混乱しているようです。ただ、善人同士の信頼が永遠に継続する絶対的価値であると、言いたかったようです。そして、ここにおいて神話世界への逃避と表現していることが、実は後々大きなウェイトを占めてきます。

 ここは余談。倫理的神話の絶対性、の、絶対性についての論証はやりかねます。でも、我々はそう信じがちじゃないですか。

 ここで、

 ただ一人の倫理に呼応する思想と、それに従った善き人生の予感を肯定する

 と表現しているわけですが、つまり、そういった関係性が永遠に続くと保証する(倫理的神話の絶対性)ことで、彼女との予感上の未来は、現在の経験の延長として保証され、然るにプレイヤーにとっての実感になる。

 そして、予感上の人生を共にした相手に対する誓いを、我々や主人公は成し得るわけです。

 

 この時点では、セカイ系に限らず、ヒロインを絶対化する傾向と、その手順の概要についての推論を行っていました。そして、その極致として、ヒロインの存在に世界の方が下位につく、という象徴的な作品として、セカイ系を取り上げたようです。

 

 まあ、これは単に僕がそういうの好きだったなーって言うぼやき。けれど、どうやらこの辺りから僕は、セカイ系と言うものは何だったのか、という考えにとり憑かれ始めたようです。

 

 折に触れて顔を出す、セカイ系というワード。論としてはちょっとボンヤリしていますが、この、絵や雰囲気で語っている、と言うポイントは、実は「天気の子」を語る際に極めて重要になってきます。

 

 この時にはもう議題を意識し始めています。

 ちょっと拡大解釈しすぎですね。このころは定義も曖昧で、それっぽいという事で呟いていたようです。ただ先述の、主観と、世界そのものと、その表現手法が高度に一致するという点に、注目したかったようです。

 

 ずっと気にしています。

 

 主人公が外交的でない前提になってますが、これはヒロインの絶対性があるためです(ヒロイン以上の存在はない)。その上で「外の世界の可能性への憧れ」か、「内的に問題を抱えた人間を援ける」優越感か、関係性の取り結びにおいて、そういうものがよく使われるような気がする、と。厳密に言うと、セカイ系の特徴でもないし、並立させる要素でもない気もします。

 試論。外に開き、たくさんの可能性を手に入れて、その中で伸び伸び生きて行く、という健康的な理想と、絶対的ヒロインとの相克の結果、世界の方が抽象化する場合もある、という事です。

 諸星あたるですら、映画ではセカイ系の呪縛に囚われたのだ……(時系列的にはむしろこっちが先か)

 

 信仰って強いよね、と言う話。一見何の関係もないようですが、実は最後の方でなんとなーく関わっているような気がしたので、入れました。

 

 何かが判ったようです。セカイ系の特徴を、

 痛切な孤独と淋しさを、傷をえぐりながら掴みだす

 と、表現しています。定義的にはある程度共感してもらえるかなと思うんですが、これは以前から持っていた感覚です。論旨はKEYの話なのですが、このタイミングではもうセカイ系についてある程度の見通しを建てられていたように思います。そして、その特徴をカバーする形で鍵作品はヒットしてたんじゃないか、と言う話です。

 

”オタクの中に共通していたであろう、疎外感と孤独感を背景として、それを比喩でも何でも捉えて表現まで昇華したセカイ系と言う作品群”

 これが、一つの解です。

そしていま、改めてこれらの定義の類を総合して、僕がセカイ系とは何だったのかを定義することには、

 

「90年代後半、終末思想はびこる中、迫害を感じていたオタク(や表現者)たちが、自らの愛する二次元表現に救いを見出し、それを絶対化・神聖化して、抑圧してくる世界と主観的な表現で対立させ、現実社会への迎合を否定、正当化する意識の下に生み出された作品群」

 とでも言うべきでしょうか。

 

 迫害や抑圧の感覚は、ヤンキーものや、尾崎豊の世界観などの殺伐感のように、それ以前までも表現の主体でありえました。彼らはある種の荒んだ感覚でその疎外感を訴えたり、暴力的行為に出ることでそれを打破しようと足掻いたものであろうと思います。外向的な抵抗です。

 一方でセカイ系は、理解されない俺たち、を神聖化し、正当化する。絶対神であり、主人公の価値観の保証者でもあるヒロインと共に、それを否定する既存社会を内向的に拒絶する。けれど、社会を拒絶することが非現実的であることはみんな判っていて、その中で都合良くノーテンキでいる事もまた、信じがたかった。

 だから、ヒロインを中心とする信仰が勝利すれば、世界(既存社会)は崩壊したり、主人公が破滅したりする。一方で、既存社会を維持する方向ではヒロインの存在や、大切なものが毀損される。開き直りもできず、まるで隠れキリシタンのような屈折を遂げ、血のにじむ受難の歴史、その殉教者として神に尽くし、足掻き苦しみ、懊悩する自らの姿を肯定する作品群に、聖的な救いを見た。

 これが、セカイ系であったのだろう、と今は思っています。

 

 この結論に達したのは、つい最近でした。そして、この視点を持って、ぼくは「天気の子」を見に行ったのでした。

 

 そして、セカイ系の先にはいったい何があるのか。これは、天気の子の感想にもつながる重要な視点です。

 

 

 とりあえず、天気の子の感想を書くために必要とした、僕の持っている前提を、ちょっと乱暴ですが列挙しました。