セカイ系についての考察の時系列
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過去に僕が思考の対象としてきた、セカイ系における考察の系譜です。
なお、ここで言うセカイ系やオタクなどの単語、および、それに基づく論はあくまで僕の雑多な感覚を表しただけのものです。他の方との定義が異なる面も多々あると思います。ご容赦ください。
ジジババの恋とか、生に対する執着とか、その辺を考えてたら、ようやくセカイ系が描こうとして来たものに少し手を触れかけた気がした。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
さかのぼれるだけのツイートから見つけた、最古のセカイ系への言及です。人生を十分に過ごしてきた人間同士の恋愛、あるいは過ぎ去った時間への執着などをまず思い浮かべましょう。
うまく言葉には出来んが。90年代から00年ごろにかけて流行った死にかけ系ヒロインと言うのは、これから起こるであろうそのヒロインとの長い人生を予感させつつ、その予感上の人生を夭折の直前に凝縮しているのだ。だからこそ、キャラもそれに入れ込むオタクも、そのヒロインに誓いを立てることができた
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
つまり、出会ったときや、過ごした短い時間に出来事を凝縮し、人生における悲喜こもごもを一気に経験させる。あるいは、その二人がずっと暮らして行くという、予感上の未来を展開し、それをすでに体験したかのように錯覚させる。
それがどういった方法論だったのかは、いまだ検討の余地に満ちているが。誓いとは、そのヒロインと共に過ごす予感上の時間に対して誠実であろうとする姿であり、その時間に成立する様々な価値観が、彼らの将来的な行動を抑制することからそう呼ぶとして、その予感上の経験とは、単なる期待感とは異なる
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
きっとこうであったに違いない、だから俺はこうするのだ、と決意する態度は、単に未来を想像するだけで起こるのではなく、その予感上の未来を、部分的にでもたしかに経験したからこそ、起こるものと言えます。勿論そのシーケンスに結構な時間を割いている作品もある。
或いはまた、単なる喪失感とも異なるのだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
そのヒロインと過ごす出来事や時間を、驚きに満ちた目覚ましい期待感の中に瞬間的に予感することは、一目惚れの一種として、またかなり偏執的な側面も持つものだ。そしてその予感を、実際上の人格や時間が裏切らない。この、強烈な一目惚れの追体験が、当時のコンテンツの持つ一つの催眠作用であった
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
もちろんそれを後々裏切っていきます。ここから、少しセカイ系のものとは異なる話になってしまうのですが、まあ、話の運びもあるので、列挙。
この催眠の大きな特徴は「人は相互に善き人ととして理解し合える」という前提に基づいており、これをゲームでは、プレイヤー自身の善人度を試すことによって与える。すると、善き人との滑らかなコミュニケーションが得られる。これが、人間関係に疲れた人種への慰撫として働いたのではないか
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
ここでは、ゲームにおける選択を、善人度の測量としています。何故、善き人である必要があるのか、そこは後半で触れます。お楽しみに。
然るに、当時の主人公-ヒロイン間の関係は、当事者同士が善人であれば成立し、それは時間を超えて永遠に続いて行く物とされた(一概には言えないが)これは複雑な思考を必要としないもので、ドラマツルギーの未熟さとともに、世界さえもが、そのコミュニケーションの下位に位置するという事態を生んだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
主人公-ヒロイン間の、一種の倫理的神話への従順性の下に世界側が構築されていく、これがセカイ系の基本構造であり、現実から神話的世界への逃避がこれを生んだと考えると、今、セカイ系の作品が生まれにくいのにも一応の合点がいく。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
また話がセカイ系に戻っています、ちょっと混乱しているようです。ただ、善人同士の信頼が永遠に継続する絶対的価値であると、言いたかったようです。そして、ここにおいて神話世界への逃避と表現していることが、実は後々大きなウェイトを占めてきます。
価値観の多様化と絶対性の崩壊、人の人格も、コミュニケーションも、倫理の下に生まれ落ちたのではない。ある意味で、初期のネトウヨと当時のオタクが相性が良かったのには、そういった倫理的神話の絶対性に身を委ねる事で、善きコミュニケーション、善き人生が送れるという幻想があったのかもしれない
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
ここは余談。倫理的神話の絶対性、の、絶対性についての論証はやりかねます。でも、我々はそう信じがちじゃないですか。
いずれにしろ、ヒロインの褒章的態度がやたらと強調されたり、そうでないヒロインは当然のように人格を持ち始めたりする昨今の創作のトレンドにおいて、唯一人の倫理に呼応する、思想と、それに従った善き人生の予感を肯定する、絶対神としてのヒロインは、姿を消して当然のようにも思われる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
ここで、
ただ一人の倫理に呼応する思想と、それに従った善き人生の予感を肯定する
と表現しているわけですが、つまり、そういった関係性が永遠に続くと保証する(倫理的神話の絶対性)ことで、彼女との予感上の未来は、現在の経験の延長として保証され、然るにプレイヤーにとっての実感になる。
そして、予感上の人生を共にした相手に対する誓いを、我々や主人公は成し得るわけです。
この時点では、セカイ系に限らず、ヒロインを絶対化する傾向と、その手順の概要についての推論を行っていました。そして、その極致として、ヒロインの存在に世界の方が下位につく、という象徴的な作品として、セカイ系を取り上げたようです。
なんでセカイ系って衰退したんだろう、なぜ今成立しないんだろう、あそこには素敵な物が沢山あった気がしたんだけど、と、思っていたんだけれど、なんとなくその理由が判った気がした。なんつーかストイックすぎるんだな。大衆化したオタクに向けてやるには。若い人に向けちゃうと悪影響ありそうだし。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
でも、ヒロインも主人公も、世界も全部俺の思想の下に統制されてるんだ、それを最高にキレイに見せたいんだ、っていう偏執的態度は、そんなの面白いに決まっているのだった
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2017年12月8日
まあ、これは単に僕がそういうの好きだったなーって言うぼやき。けれど、どうやらこの辺りから僕は、セカイ系と言うものは何だったのか、という考えにとり憑かれ始めたようです。
AirのMADとか、セカイ系の作品とか、茫洋とした所のある作品の方が、映像の断片で喚起される感情が大きいのってちょっと面白いな。つまり、絵や雰囲気で語っている所が多いという事だろうし、それがドラマ作品として優れているかというと実はアンバランスだという
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月6日
折に触れて顔を出す、セカイ系というワード。論としてはちょっとボンヤリしていますが、この、絵や雰囲気で語っている、と言うポイントは、実は「天気の子」を語る際に極めて重要になってきます。
https://t.co/oG8EdeCpnQ 文句なしに面白かった。最近ずっと自分の中には、セカイ系とは何だったのかという疑問があるんだけど、その一端が、こういった日本的とは思えない議題、表現方法上に現れてくるのは興味深い。主観や自らの振る舞いが、大きな時代の流れや世界に連続している感覚。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月19日
この時にはもう議題を意識し始めています。
https://t.co/0nszJVOal1 その定義上にはこの作品もあって、これは一種の時代劇で、主人公たちの若い感性を描く作品でもなく、もっとドライな感覚があるんだけれども、確かに時代と人の振る舞いや考え、主観、生き方がリンクしている、俯瞰的なのだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月19日
定義上そうに違いないのだが、この、世界と密接にリンクした人間の、感性や主観をシミュレーションする、あるいは、描きたい感性を前提に、それを強調する世界観を再構成するというのが、基本的な技法という事ができ、アプローチの前後はあるものの、これら作品が僕の感覚に訴える一つの答えなのだろう
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年5月19日
ちょっと拡大解釈しすぎですね。このころは定義も曖昧で、それっぽいという事で呟いていたようです。ただ先述の、主観と、世界そのものと、その表現手法が高度に一致するという点に、注目したかったようです。
平成が終わるし、自分の中のセカイ系的なものに見極めをつけないとなあ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月14日
胃が痛くなってきた。あれ、はもう失われたんだ。それがなんだか区切られることによってはっきりした気がする
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月14日
最終兵器彼女を再読了。意味わかんない頃に意味わかんないまんま圧倒されてて良かったー! 今読んでたらスゲーけど足取りの重い作品だなくらいに評価してたかも。そういう意味で、自分には通り過ぎた作品でもあると言うことなのだろう。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月17日
ずっと気にしています。
人、特にヒロイン級に主人公とかかわる人間を、象徴的に描くときに、自分にない「外部への接続」へのあこがれか、「内的な制限」への庇護欲求をアタリにして関係性を結ぶと、見た目だけのひとめぼれよりだいぶ穏当だな。と思ったメモ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年2月2日
主人公が外交的でない前提になってますが、これはヒロインの絶対性があるためです(ヒロイン以上の存在はない)。その上で「外の世界の可能性への憧れ」か、「内的に問題を抱えた人間を援ける」優越感か、関係性の取り結びにおいて、そういうものがよく使われるような気がする、と。厳密に言うと、セカイ系の特徴でもないし、並立させる要素でもない気もします。
で「外部への接続」を、憧憬を得られるように描き、かつ独占的にするために、(あるいは作者の想像力の限界で)「外部」は抽象化するし、そうすると、「抽象的に世界と接続する」ヒロインが生まれるので、これも一つのセカイ系の解釈かも知れない
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年2月2日
試論。外に開き、たくさんの可能性を手に入れて、その中で伸び伸び生きて行く、という健康的な理想と、絶対的ヒロインとの相克の結果、世界の方が抽象化する場合もある、という事です。
諸星あたるですら、映画ではセカイ系の呪縛に囚われたのだ……(時系列的にはむしろこっちが先か)
現実に存在する個をいかに充たそうと、けだし死からは逃れられないが、現実の充実を以てせずとも、信仰は一足飛びに存在を肯定する、死を超え、時間的、物理的限界が消滅するのだから、今が満たされずともいずれはと
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年6月1日
信仰って強いよね、と言う話。一見何の関係もないようですが、実は最後の方でなんとなーく関わっているような気がしたので、入れました。
雲の向こう を見てたんですよ。もういっそ殺してくれ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
わかった。この痛切な孤独と淋しさを、傷をえぐりながら掴みだすのがセカイ系だった時に、キセキだろうが何だろうが、猛烈な優しさの感情でそれを押し流すのがKEYだったのか。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
何かが判ったようです。セカイ系の特徴を、
痛切な孤独と淋しさを、傷をえぐりながら掴みだす
と、表現しています。定義的にはある程度共感してもらえるかなと思うんですが、これは以前から持っていた感覚です。論旨はKEYの話なのですが、このタイミングではもうセカイ系についてある程度の見通しを建てられていたように思います。そして、その特徴をカバーする形で鍵作品はヒットしてたんじゃないか、と言う話です。
そりゃうけるよ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
完全に時代を捉えてた
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
オタクの中に共通していたであろう、疎外感と孤独感を背景として、それを比喩でも何でも捉えて表現まで昇華したセカイ系と言う作品群、そしてそによって自らの孤独を自覚したオタクたちを癒すための物語・・・
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
”オタクの中に共通していたであろう、疎外感と孤独感を背景として、それを比喩でも何でも捉えて表現まで昇華したセカイ系と言う作品群”
これが、一つの解です。
そしていま、改めてこれらの定義の類を総合して、僕がセカイ系とは何だったのかを定義することには、
「90年代後半、終末思想はびこる中、迫害を感じていたオタク(や表現者)たちが、自らの愛する二次元表現に救いを見出し、それを絶対化・神聖化して、抑圧してくる世界と主観的な表現で対立させ、現実社会への迎合を否定、正当化する意識の下に生み出された作品群」
とでも言うべきでしょうか。
迫害や抑圧の感覚は、ヤンキーものや、尾崎豊の世界観などの殺伐感のように、それ以前までも表現の主体でありえました。彼らはある種の荒んだ感覚でその疎外感を訴えたり、暴力的行為に出ることでそれを打破しようと足掻いたものであろうと思います。外向的な抵抗です。
一方でセカイ系は、理解されない俺たち、を神聖化し、正当化する。絶対神であり、主人公の価値観の保証者でもあるヒロインと共に、それを否定する既存社会を内向的に拒絶する。けれど、社会を拒絶することが非現実的であることはみんな判っていて、その中で都合良くノーテンキでいる事もまた、信じがたかった。
だから、ヒロインを中心とする信仰が勝利すれば、世界(既存社会)は崩壊したり、主人公が破滅したりする。一方で、既存社会を維持する方向ではヒロインの存在や、大切なものが毀損される。開き直りもできず、まるで隠れキリシタンのような屈折を遂げ、血のにじむ受難の歴史、その殉教者として神に尽くし、足掻き苦しみ、懊悩する自らの姿を肯定する作品群に、聖的な救いを見た。
これが、セカイ系であったのだろう、と今は思っています。
この結論に達したのは、つい最近でした。そして、この視点を持って、ぼくは「天気の子」を見に行ったのでした。
そして、セカイ系の先にはいったい何があるのか。これは、天気の子の感想にもつながる重要な視点です。
時代遅れになる訳だ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
今の作品群はオタクに自覚を促さない・・・言い方が悪いけど、すでにそういった、何かしらの不満や苦しみがあった時に、それを暴き立てるようなことはせずに、さっさとそれを覆い隠し、癒す(嫌な言い方をすれば誤魔化すような)作用を持つ物語の傾向なのだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
そして、その方が圧倒的に娯楽として本道なのだろう
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
市場原理に基づく限り、人を慰撫するのが物語の大いなる役割である原則は、変わらないはずだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
しかし、何かしらの不満、苦しみがある際に、まずそれを強く印象付けるからこそ、救いやその破壊やらが強烈な快感になるのだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
その、最初の直視に
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
耐え切り、物語を一緒に戦い抜く体力がもう遺されていないのか。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
面白いのは、セカイ系時代の「こんな苦しみがあるよ・大」→「こう解消するよ・小」 と言った物語中の比重に反して、最近の作品は「こんな問題があるよ・小」→「こう解消するよ・大」といった感じになってるという点。一時期言われた、苦しみがあるのはとっくに判ってる、と言う客層の反発がよぎる
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
また、諦めや空想ではなくて、具体的に問題を解消していこうとする、主体的意識の変化もはっきりとわかる
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
そういう変化を見ていると、閉塞よりも打開へと動く姿勢を多くの人が妥当としているという点で、希望がある気がする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2019年7月5日
とりあえず、天気の子の感想を書くために必要とした、僕の持っている前提を、ちょっと乱暴ですが列挙しました。