ファンタジーとは
いわゆる剣と魔法のファンタジーが、世界観が違いすぎてまるで入ってこなくて好きじゃなかったんだけど、最近クトゥルフとかダンセイニとかに触れた結果、これは深層心理の像としての空想と、土地や文化に根差した美術と、冒険や探索といった知的好奇心とが結びついたものであることが判ってきた
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
ファンタジー好きな人から、空想の世界に浸れるから~ みたいな事をよく聞くけど、そんなもんあらゆる創作がそうじゃろがいと思って全然ぴんと来てなかった。要するに「心象世界の博物学」と考えれば成程と思う。それが深層心理に近づけば恐怖や狂気は這いよる。だから幻想と怪奇は概ねセットなのだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
という発見でした。そこに徹底されたものがあれば、人の鑑賞に足るものになるのだろう、と。伝承や伝説を現代に生かしていくには、形式主義ではなく、その本質を読み解き、人の心理にいかにその世界観が影響を与え得るものなのかを解析することが必要なのかもしれない。感性的にそれが出来る人も、もちろんいますが。
ここに至って、ファンタジーの良さを知った。ある意味では制限のない作家の世界観の表出そのものだからだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
そう考えると、荒唐無稽に見える展開や、脈絡のない人物たちの行動や発言なども、何となく許せるようになってくる。というのは、空想を突き詰めたものを見るならば、ともすればドラマツルギーや人間の当り前の振る舞いなども、作家の世界観に殉じて再構築され得るからだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
でも、それをやる以上は徹頭徹尾自分の空想に殉じなければならない。溺れ切らねばならない。そして、その美しさやおどろおどろしさで、人間の心理に訴えかけ、その世界に引きずり込まねばならない。そうあろうとする姿勢があるだけで、きっと、面白くなる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
そういう話でした。結局、ライトファンタジーに関していまだにあんまりピンとは来てません。一時期のSFオタクみたいな言い草。
同情と憂いの話
何かといわれがちな分厚いまつげと下まつ毛の表現、あれとギラギラのハイライトで表現される「憂い」の目は、何物にも代えがたい強烈な魅力で以て自分を縛っているのだけれど、これが世代的な感覚なのかは何とも判らないのだった
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
Twitterで以前話していたのですが、我々の感性にある、同情と憂いの感覚について、少し考察したものです。
重要なのは、憂いとは、ある物事について心配し、哀しい気持ちになったりする内的な、個人的な感情であるという事。そしてそれをベースに他者を思いやる技術が「同情」であったのだろうという事です。「みんなで集って哀しみ合う」という行為が、貴方にとってはどのようなものと感じられるでしょうか。
非生産的でしみったれて居ると感じれば、貴方は問題解決型の思考を持ち、ある種の人達を見捨てながら前に進んでいく人でしょう。もしかしたら、あなた自身がその価値観に苦しめられている可能性もあります。
その集団を、優しく、思いやりがあると感じた人は、人の痛みに寄り添い、皆で哀しみを分担して和らげながら、いつまでたっても対処療法的にその苦しみから逃れられない人でしょう。
どちらが良いとか、不幸であるとかは、個々人が判断すればよい事です。
誰かに傷をつけられた時、前者は傷つけてくる相手を排除することを考え、後者は傷を癒すことを考える、そういう違いであって、どちらもバランスよく居た方が良いという、当たり前の話です。
とはいえ、日本の創作物の系譜をざっくり眺めていると、どうも伝統的に後者の態度が顕著に表れていると感ぜられます。その創作物が庶民の娯楽に近ければ、作品に描かれた価値観はある程度当時の庶民に承服しやすいものであったと考える事が出来ます。
暇つぶしに読んだ澁澤龍彦の本で、「情死(心中)」が、一つの純愛の到達点であり、文芸的にも型となっていることが書かれてたけど、まあセカイ系もその延長にあったんだなー、と。どれだけ昔から日本人の奥底を「憂い」が支配してきたのか。だが、それもここ十年ほどで少し違ってきた風にも思う
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
一方で最近の出来事を見てぼんやりと考えることは、災害が多く貧しい国で、コミュニティとして穏当かつ強く結びつくために我々は憂いと同情の感性を肥大させてきたのだろうと思う事だ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
まあ、そういう事なんじゃないかなあと。
だがこれは、憂いに足る何かが起こることを前提としていて、そういった事を起こらないようにするマネジメント的な考え方に結び付きにくく、平穏な時にも杞憂に苛まれるものを生みかねない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
同情や憂いは人の感情やダメージを表現し、共有し緩和する効果のある、ある種の手段であり、それが共有の場を失ったり、あまりにも内的に再生産を繰り返したりすると、劇物化してしまうのではないか、と。憂いは次の行動へ移るためにいずれ通過すべきもので、それ自体も他者との間を行き来するのが、本来の形なのではないか。
しかるに、苦悩は共有されない所から深淵へと向かっていき、共有された苦悩は戦いへとつながっていく、という傾向。
また本当の同情は芯から自らの「憂い」を顧み、相手とは種類は異なってもその憂いを分担するという構造によっており、そうであるからこそ身を挺するという法も出てくる。それを安易に絆とか、助け合いとかいう言葉に堕とさざるを得なかった背景には、「憂い」とその感性の低下があったことが推察される
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
「絆」という言葉は本来的には、同質の共同体の中で、二次的に意識される感覚であって、共同体の一員としての個人の自覚を必要とする。だからこそ、その自覚のない人間や、共同体の感覚を理解しえない遠方の者までその言葉でくくりだすと、言葉が意味を失ってしまう。
「助け合い」は、より即物的な言葉である。だが、先述の絆、という言葉の無意味さよりは、他者の理解しやすいレベルでの援助を求める言葉でもあり、社会的効果を生むだろう。だが、本質的に傷ついた人を癒す効果は限定的であると考える。それに、一方で激しく傷ついた者があるなら、必要なのは助け”合い”ではなく一方的な救助や援助であって、言葉にあいまいさが残る。
また本当の同情は芯から自らの「憂い」を顧み、相手とは種類は異なってもその憂いを分担するという構造によっており、そうであるからこそ身を挺するという法も出てくる。それを安易に絆とか、助け合いとかいう言葉に堕とさざるを得なかった背景には、「憂い」とその感性の低下があったことが推察される
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
同情するなら金をくれ、という言葉がはやって、同情という言葉は零落したのだろう、もちろん、その素地はすでに固められていたのだろう。形式的な同情や、半強制的な心情を伴わない行為としてそれが濫用され、本質を理解しえなくなれば、当然言葉の意味も変わる。
敗戦の全日本的苦しみの中で、苦しみを抱え合う者同士が、自らの苦しみを顧みて、他者の苦しみを共有することが容易だった時代。そして、ネットワークの未発達によって、目の前で起こったことにしか、本質的に行動できなかった時代。そういった中において、同情という行為は極めて有効に働いたであろうことが推察される。
社会のスタビライザーであった「憂い」と「同情」が零落し、言葉だけのものに堕ちれば、自ら憂いなきものが、あまりに溢れる世の憂いを理解できずに口を立てるのも、自らの憂いを自らだけのものと内包化する者が、同情の法を学ばずに苦しみ傷つけ合うのも、ある意味では常道。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
けれども先述の通り、最近は色々と意識が変わりつつある気がする。「憂い」は一つの「枯れた技術」であって、無論功罪がある、それに依存しない、新しい秩序を探している最中なのかと思う。その世代が生む作品はどんな物になるか「憂い」の最後の世代かも知れない自分は、楽しみに思っている
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
「憂い」は、我々の使い慣れた道具であり、風土や気候にも合っていることを考えると「憂い」の法を、一つの道として残すことは、もしかしたら、ではあるが、新しい価値観から零れるかもしれない多くの人を、救い得るのかもしれない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
実利主義と、行動によって世界を変革し続けなければならない時代で、世の中は良くなっていくだろうが、感情的に顧みられず零れ落ちた人たちを救うのは、古典的な方法であるかもしれないという結びです。(まあ、傷の舐めあいは適度な所で切り上げられるようになれば理想的、というところですかね)
昔の作品について
というわけで、今日、ピクシブに昔作ろうとした作品のシナリオを全部上げてきました。割と複雑で、気に入った所もあったのですが、やはり三年前のものという事で、拙い所が目立ってしまって、これ以降作る事はないだろうという事で。
キャラクター図が既に3Dであるように、実際に映像化するための作業も進めていました。これらの資産と経験値は、直接現在作っている作品へと発展、継承されています。
今回はその辺をちょろっと触れながらも、全体を見返す言い訳タイムをやろうと思います。
なぜ作るのを止めたのか
手間がすごすぎる。読んだら判ると思いますが、スケールが無駄にでかい(そういう大きな話が、当時はやりたかったんです)。巨大物のバトルシーンが頻繁に出てくる(これは意図してですが、結果として作業量がえげつない事に)
今でこそ、BGMやSEのフリーデータが沢山共有されていますが、3年前はそういうものへのアンテナも鈍く、全くの手探り状態。いくら何でも初心者が(モデル類を含め一から)作れるものではない…という事も判らなかった訳です。
また、作品の根本となる世界設定に、致命的に安易な物がある。これがずっと引っかかっていました。台詞回しが臭いのは良い、長々しいのも良いだろう。あとで編集すればいい事です。けれど、それを支える設定が拙いものであるという事が、決定的にこの作品を過去のものにしている。当時は、それよりも沢山のキャラクターを、大きな物語の中で動かし、説明を重ねつつ感情の波を伝える、という行為に注力していて、設定を緻密に詰めることによって生まれる説得力に、ほとんど配慮できていませんでした。ある意味で、当時なりに目標を達したと思ったものの、今見返すと紙の舞台の上で人間が一生懸命芝居をしている、そんな歪さが目立ちます。
そして、それら設定を組み直して、話の展開を修正し、さらに世界観の説明を積み上げられるようシナリオを改定する、という作業が、膨大な実務作業の前に横たわっている。これを顧みて、これを新しいものとして世に問えるかというと、僕にはそういったビジョンが描けなかった、という所です。
しかし、これらの反省は、現在作っている作品にきちんと反映されています。
現在作っている作品への継承
①規模
前回のブログ記事に、いくつかスクリーンショットを載せましたが、現在作っているものは学園部活モノです。規模を大きく限定し、キャラクターも女子で揃え、着替えもない。モデルやモーションの流用は大前提です。没作品への反省から、日常で音を集められるもの、そして、全体の統一感や世界観設定を、比較的楽に行えるものとして検討しました。その一方で、SDキャラにすることで作業量を圧縮し、世界観の安易さを誤魔化そうとしていた面を改め、実頭身に近い形で、説得力を高められるようにしています。作業量は増えましたが、重要な事でした。
とは言え、すでに年単位で作業が続いています。
②モデル
没シナリオの冒頭にキャラクター図が載っていますが、それらのモデルは順当に現在のモデルへ改造されています。
例えば、アラワと四条紗衣は直系の改造です。
また、綾里美佳は、アオテアの改造です。
没作ではアオテアが主人公でしたが、今作ではアラワの直系が主人公という事になります。とはいえ、キャラクターの性格は全然違います。その辺の違いも、本編投稿時には楽しんでもらえると面白いかもです。
③台詞回し・テンポ
シナリオの書き方が大きく変わりました。実は今作のシナリオは、部分的に合作となっています。以前はすべて自分で書いていたのですが、限界がありました。
説得力がいい加減になる自分のクセもそうですが、会話の咬み合わせが良すぎるのです。こういった状態は、流れのある大きなものを書く内では良いのですが、日常シーンになってくるとどうしても活気がありません。会話と考えのぶつかり合いが、激昂になってしまうのであれば、それは大きな物語でやるべきこと。一方で決まりきったことを、幾人ものやり取りで喋るのであれば、それは詰まらない物です。
今作では他者を入れることで、全く自分とは思考の違う者たち、を揃えてみました。すると、日常の会話をさせるだけでも小さな価値観がぶつかり合い、小気味のよい音を奏でてくれる事が判りました。
また、規模が小さくなったことで、コンテ作業や、実務作業が完全に自分でコントロール出来るようになり、シナリオも厳密に書き上げるのを止めることができました。
必要事項を書き出してある程度に固め、絵コンテ段階で演出と合わせて必要十分な台詞回しに編集するような方式としました。スピード感が出て、思いついたネタをサラッと入れたりできる。一方で、安易に全て喋らせていた部分を考え直し、キャラに最適な言い回しに圧縮するシークエンスが発生したことにより、キャラクターそれぞれへの理解がより深まっていく。
規模が小さくなった分、その深さは、きわめて重要な作品の要素となっています。
台詞の圧縮については、過去にツイートしていますので、参考までに。
ついでに当該シナリオ部分。シナリオには過剰に(押さえておくべき)情報を載せておき、それをコンテ時に圧縮、精査する。今回そのまま利用した台詞は20行程度から10行程度に(水色部分)。大幅な演出の変更を踏まえ、動画コンテ上で台詞と演出の再構成を行う必要があった事が判ると思う。 pic.twitter.com/HFfvqbLGx8
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年1月14日
④説得力
今作はジャンルモノにすることで、そのジャンルに精通した人と協業し、世界観をより厳密に練り上げることができるようになりました。これは僕の最も苦手としていた所です。十分な世界観を構築できたため、安心してキャラクター達を遊ばせることができるようになりました。
おわりに
以前自分が作ったもの、それも大きな設定の作品で、大きな感情のやり取りで構成された作品。今は、それとはまったく違ったものを作っています。没にした理由ははっきりしていますが、こういった記事を書くほどには、自分にとっては重要な足掛かりとなる作品でした。
自画自賛になりますが、キャラクターの相関や、歴史的な動きの複雑さやその見せ方など、取りこぼしは多いものの、良く走り抜けたね、という部分もあり、一概には嫌いになれない作品です。
本編投稿の折りには、前作としてこんな物語があったのだと、没作品ながら、改めて楽しんでもらえればありがたいなと思います。
それでは。
今作ってるものについて~キャラ紹介
こんにちは、みなさん。Magenic_Cafeです。(略してまフェです)
何をやっている人かという事は、こんなブログを見に来てる人なら判ってると思いますが、MMDでオリジナルの中長編アニメを作ろとしている人です。
今回、製作中の作品の骨子が大分できてきたので、告知を兼ねて、キャラクター紹介を画像付きでお送りしようと思います。
タイトルは、"拳闘の春風(けんとのはるかぜ)"
MMDアクションは人気ジャンル、学園部活モノも人気ジャンル、じゃあ合体させようかみたいなノリです。
カンフー映画みたく、いろんな拳法や格闘技が出てきて、全国大会で異種格闘技戦をすると。
実写だと大変でも、作画がきつくても、3Dアニメならできるはず!
と、いう事で始動した企画だったのです……
キャラクター紹介
四条紗衣
この作品の主人公。八極拳の使い手。
他流に染まり、自ら父の道場を破った兄に復讐し、道場を再興するために、全国学生対抗格闘技選手権(略してガッカク)に出場する。
冷静沈着な性格で、常に鍛錬を怠らない一方、人付き合いが苦手。
ガッカクにも、美佳の挑発がなければ参加しなかった。
高い集中力と鋭い直感で、威力の高い技を急所ギリギリに的確にたたき込むスタイルだが、やや神経質で、メンタルが成績に直結する面がある。
綾里美佳
紗衣の長年のライバル。スタイルはボクシングだが、最近はムエタイをかじり始めた。
陽気な性格で、学業成績はあまり良くない。
だが、その異常なまでに前向きなメンタルは、強靭な精神力の賜物であり、何度負けても前に進み続ける。
神経がやや鈍く、手練れには手も足も出ないことがあるが、その分痛覚まで鈍いのか、やたらと打たれ強い。
精神力・スタミナ・打たれ強さの、タフネス三拍子が抜きんでており、どんな相手でも押され負けるという事がない。
糸が切れるその瞬間までパワーが落ちないため、間に合えば判定で粘り勝つことが多い。
大高ましろ
極真空手の師範代であった父のもとを離れ、琉球空手の達人であった祖父の下で暮らしていたが、最近東京に戻ってきた。
つかみどころのない軽薄な性格は、その戦闘スタイルにも表れており、ノイズの多い動きで相手を翻弄し、洗練された技を次々としかける。
自らのペースに相手を引き込むことができた際には、圧倒的な強さを発揮する。
その場に生まれた雰囲気や流れを察知し、それに殉ずる性格で、場を圧倒する雰囲気の持ち主には弱い傾向がある。
姫宮慶
前ガッカク優勝者。突如として現れたマーシャルアーツ(ストⅡ的な意味で)の使い手。
恵まれた身長と体躯で、微笑みながら次々と相手をリングに沈めていく姿は、参加者や観客を青ざめさせた。
本人はいたっておとなしい性格で、何を言われてもニコニコしている。
怪力とタフネスの持ち主に思われがちだが、身体能力そのものが飛びぬけている訳ではない。
その強さは、どんな相手にあっても物怖じしない、半ば白痴と言ってもよい精神力と、洗練された技術に裏打ちされている。
福原祥子
お嬢様学校の期待のホープ。警察の家系に生まれ、逮捕術を総合的に身につけている。
清廉な印象の持ち主で、一年生ながら学内からの人気も高い。
真面目な性格だが、精神年齢は相応で、置かれた環境に慢心してしまうこともしばしば。
そういった自分の甘さを見つめ直すために、荒行としてガッカクに出場するが、周囲の反応は芳しくない模様。
相手への痛打を至上目的にしない戦闘スタイルは、批判されることもあるが、本人の臨機応変さに応じて繰り出される実直な技の数々は、少しずつ認知されつつある。
一峰
酔拳の使い手の仙人。見た目の割に年齢は462才。
神社に住み着いている。
学生たちを時に導き、時にからかったりして暮らしている。
作中では、神社に主人公たちを合宿させ、24時間、生活中の有効打の数を競い合うという、乱取り特訓を行わせる。
光
神社の祭神。狐の神様。
本人は平和主義で乱暴が嫌いなのだが、歳相応(室町時代産まれ)に長刀等の武術や体術を身につけてはいる。
一峰に神社に上がり込まれ、困ってはいるのだが、寂しがり屋でもあるのでなかなか追い出せないでいる。
他にもまだまだクセのあるキャラクターが……!
と、いうわけで、なんとなく雰囲気が判ってもらえたでしょうか。
アマチュア作品ではありますが、皆さんに楽しんでもらえるエンタメ作品にしたいと思って頑張って作っています!
今後とも“拳闘の春風”の応援、よろしくお願いします!
(……と言うのは実は全部ウソで、本当は咲みたいな麻雀アニメを作ってます。タイトルは「トリコロールコンパス」よろしくおねがいします)
上記画像の作成にMMEとして PostMovie,L3AA をお借りしています。
ブログテストです。
なんとなくHP的なものがあった方がいいかという事で、ブログを作ってみましたが、中身は未定です。