創作+αの色々Ⅱ
昨日の続き、古いツイートのまとめです。
・抽象と現実と人間
リアルとファンタジーの、良いバランスの所に創作はあってほしいよねと言う、ごく当たり前の話があり。登場人物は、抽象的な人間の類型や解釈(イメージやパターン)と、史実や仮定された現実的行為(リアリティ)との間を行き来する、と。
「どう人があり得るか」と「どう人があったか」の、合間を振り子のように循環することで、物語は、観測者に未来を予見させつつ前に進んでいく。
— まフェ (@Magenic_Cafe) February 2, 2019
僕たちは類型や推測によって未来を想定する、そこに結果がもたらされて、僕らは納得したり不満を持ったり、驚いたりする。時系列を楽しむという事の原理。
・言葉のちがい
言葉を肉体の運動の延長としてとらえる人と、言葉の蓄積によって物事を見定めようとする人がいて、何もかも違いすぎて大体判りあえないと気付いたのが最近の知見。
— まフェ (@Magenic_Cafe) February 25, 2019
前者は舞台に、後者は映画に似ているのかもしれない。生身の肉体が発する言葉は理屈であれ肉体の活力の発露としてあるのがふさわしいし、後者は言葉の切り貼りと積み重ねによって何がしかを描出しようとする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) February 25, 2019
お芝居に関わって少しテキストをお手伝いさせていただいたのですが、映像との違いを実感したのでした。
・恋愛とは
恋とは親しさを求める衝動であり、愛とは、親しさに基づく行為を承認し合う線引きではないか
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 13, 2019
割と自分の中で結論がはっきり出ている。
より高位の、存在の相互承認へと進んで行く原動力かつ、性的本能と密接に連動する心理的作用を、恋であると言ってよいのかもしれない
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 13, 2019
恋が性的な様相を帯びるのは、存在承認において、相互の肉体的要素の承認も確たる位置を占めるからであって、精神における相互の承認と、肉体における相互の承認とが両立した状態が、もっとも容易でかつ安定した、社会内での個々の信頼状態であるから、と考え得る。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 13, 2019
いずれにせよ、相互の存在承認が、人間関係のきわめて本能的な欲求であると考えています。
・作品と地続き感とVtuber
路上ライブの音楽を聴いて、薄い口紅の老婆が、独り暮らしで淋しいからと、CDを買って行った。老婆の生活の中に、奏でる人と、その音楽が位置付けられる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
アナログな地続き感で、その人の暮らしまで感じるような、そんな出来事に遇するたび、私たちが成果物だけを享して人格を排してきた経過を思う。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
人と人とが理解し合うために、このアナログな地続き感は、極めて信頼性と安らぎのあるものだ。しかし我々はある時点でそのわずらわしさから逃れるように進んできた。特に、ワイヤードの世界ではそうだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
作者と作品を切り分け、自分と他人を切り分け、地続き感(関係性)を排して対象を正確に受け止める。これはある意味、理性的で、進歩的な態度と言える面もありそうだ。
老婆のミュージシャンへの握手の頼りなげなのを見て、深くその人を感じるように、今のYoutuberやVtuberコンテンツも成立するのだろうけれど、その時、誰かをコンテンツとして消費することについて、黙考すべき所がある。我々は老婆の背を見て、嗤うべきではないはずだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
人格と、コンテンツとの線引きはどこなのか。
これはコンテンツとして表層的に示されたものを容易に享けるなという事ではない。人格を極力伴わないコンテンツは大量生産の消費文化に基づき、これがまた改めて古くなろうとする中で、我々が価値として創作者等の人格を認める際に、その扱いを現今の消費文化の如く扱う事はしかるべきでないという事だ
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
ここまで考えて、結局無責任である視聴者個々人がそう易々と変わる訳はないのだから、結局最終的には、「コンテンツ化された仮想人格」が供給側から用意されるだけなのかもしれんね。そんでもってそれはもうコントローラーと仮想人格AIで済む話なのかもしれない
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
我々が、人格を勝手に想像する、そういった矛盾しない情報の寄せ集めなんかは、実際もう自動で作り出せそうな雰囲気だ。それに基づいて役者が喋ればもうそれで済むわけだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) March 24, 2019
ここでも、僕は無意識に、人格同士で行われるコミュニケーションを除外して考えているようです。あくまで一方向のコンテンツを想定していて、そこには当然、人が人である理由は(相対的に)希薄なのです。
創作の色々
最近ツイートをまとめられてなかったので、古い所から遡っていこうと思うのでした。
・わからないものについて
答えを探し続けようと思う気力が、自分の創作を止めどないものにしてくれる。何かを知ろう、理解しようとする思いがある内は、インプットを続けられる。内に溜め込んだ澱を、燃やして形にしなければ生きていけない人間なのだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) December 8, 2018
わからないものがある。手に取れない曖昧なものだ。その曖昧なものが宿る器を作ろうとしている。描かれたものは器、だが、そこには常にある一定の揺らぎを持った魂が封ぜられているように。
— まフェ (@Magenic_Cafe) December 8, 2018
https://twitter.com/Magenic_Cafe/status/1071349710038851584
個人的な嗜好として、難しいものの方が好きだし、言語化できないものが伝わるという事のすごさを感じる訳です。それを魂と言う言葉に代入してみたりもする。けれど、それが結局何なのかは判らない訳です。
蛇足で言えば、文脈の違うものを排除しないようにする自戒でもあります。
・描写と話の筋と、その比重と
割と最近ぼんやと思ったんだけど、ストーリーに説得力(現実味だけでなく、情感にも)を与えるために描写があり、これを演出と捉え、話の筋そのもののダイナミクス(大げささ・ドラマチックさ)によるか、シンプルな筋を面白く見せるかの問題に帰結していく以上、美麗さは演出上の要素の一つでしかない
— まフェ (@Magenic_Cafe) December 11, 2018
ちょっとややこしい言い方ですが、キレイであることは、ある表現を達成するための要素の一つだよ、という事です。
ざっくりと作品を、話の筋(≒ストーリー)と演出とに分けて捉えています。表現に説得力があるという事は、納得できるというだけでなく、体感もできる(前述で言えば、作者の魂を受け取ることができる)つまり、表現が理想的な姿で達成されている状態を言っています。その達成の為に描写、つまり演出がある。
ここでは、キャラクターや世界の設定なども、描写されなければ物語上に存在しないものとして考えているので、物語上に現れるすべての要素は、時系列(話の筋上)に羅列される描写の総体、としています。
ジェットコースターのような、人間心理の上下を巧みにコントロールする話の筋と構成を作るということと、一つのシーン、一つの仕草や流れにこだわるということは、どちらも一度、言葉として捉えてみるべきなのだと思う。自らの感覚はどちらに向いているのか
— まフェ (@Magenic_Cafe) December 11, 2018
すばやく面白く人の顔色を一つ一つ観察しながら、その人を笑わせたり驚かせたりすることと、滔々と語られる言葉の調に陶然とさせることの差でもある。目的意識の差でもある。私の目的は人の反応にあるのか、それとも、自らの見る幻想的美の中にあるのか。
— まフェ (@Magenic_Cafe) December 11, 2018
ここまで僕は無意識に、語られるもの、つまり、映像であったり小説であったり漫画であったりという、一方向のメディアについて語っていたのでした。ある種のゲームや生配信やと言ったものにはそれだけでなく、コミュニケーションの要素が含まれてきて、これを全く想定の外に置いています。
この二つ目のツイートも、インタラクティブ性について語っているように見えて、あくまで読者の反応を想定したものでしかなく、その反応が作品の本体には関わらないものとしています。
もちろん、一方向のメディアでも、友人同士での共有やイベントへの発展など、別途コミュニケーションの要素が生じる場合もあります。
コミュニケーション(互いの人格の交流)は、表現を測る第三の軸と言ってよいでしょう。
・昭和の価値観
そんなもん想像する勝手なイメージな訳ですが。
吉村昭の「漂流」を読んでて、ふと北大路欣也の「空海」を思い出したように視たんだけど、共通することは「大衆」の描き方のリアルさなんだよな。通底するテーマが似てて、それは昭和的価値観で、はっきり言ってダサいんだけど、でも多分本当にそうなんだろうなと思わせる、ある種の観察に基づいている
— まフェ (@Magenic_Cafe) January 18, 2019
その根底には間違いなく戦争体験があって、それを大衆の団結によって復興していく姿の体験があって、それを当時の視聴者に説得力ある形で提示する結果としてあの画ができる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) January 18, 2019
ハリウッド的な引きの画面で大衆が映るシーンって、みんな立ってる勝手な印象。テンポの問題もそうだし、CGの手間的な問題もあるし、そもそも僕のサンプルが偏ってるんだろうけど、力尽きて倒れた群衆が静かに目覚め、それが伝播していくようなシーンのダサさと説得力を、久々に見た気がする
— まフェ (@Magenic_Cafe) January 18, 2019
まあ、主観的な感想です。
昭和的価値観を引きずる作品において、そしてそれが大河的な広さを持つ作品であれば、大衆の描写から逃れられるものではなかったのではないか。平成のごく初めまで位はそういった作品にどこかで触れていた気がする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) January 18, 2019
そんなような。そうでないような。備忘録程度に。
今日はいったんこれくらいにしておこうと思います。
enic_Cafe/status/1071348638855491585
百合小説に目覚める
進捗を殺してくれた理由の一つ。久々に新作のオリジナル小説を書きます。書いてます。
これに向けて。
アニメシナリオを書いたり、ボイロ二次創作したり本を読んだり映画を見たりしながら、今年一年収集してきたものをうまく抽出できればと思います。ご期待ください。
進捗の話
ホントは年末までに映像関係にひと段落をつけたかったんだけど、いろいろ割り込んできてそれ所ではなくなってしまった。とりあえず年が明ける前に、一体モデルを仕上げる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年12月26日
帰省中でテキスト関連しかやれる事がないから、溜まってる作業をここで消費するつもりでいろいろ持ち帰ってきた。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年12月26日
という事で、突然ブログを再開したけれど、実際はもっとリアルタイムでTwitterでつぶやいた内容を随時まとめるような運用をしようと思っていたんです。
結局年末まで持ち越してしまったのには、アニメーション(拳闘の春風)の進捗がまあ、ある程度まで行き、メインのモーションが8割がた出来上がって、あとは口パクと小道具とエフェクトと、という所で、そろそろ広報的な活動もやっていかないとなあという意識が芽生え始めたため。
と言っても今日出せるものはないんですが。(実家のPCのためデータがない)
今年一年間はただただアニメーションを作る作業でした。(息抜きの創作とかもしてますが)年末に至り、上記の通り、アニメーション以外でもちょっとだけ動いています。小説書いたり、SmileGameBuilder触ってみたり。あと、モデル作ったりね。
SmileGameBuilderに関してはまた記事を書きたいですね。アクションゲーっぽいものを作ろうと試行錯誤した結果をまとめられればと。
というわけで、来年は追々、何か形になったものを発表できる一年にしたいものです。
ケツイをコンテンツにするという事
Undertale本当に面白いですよね。DDLC(DOKIDOKI文芸部)も。ストーリー構造になんだか日本のコンテンツめいた雰囲気があるなあと思うわけですが、その理由はここにあるんじゃないかという、推察です。
話の発端は
[MAD] トゥハート2 - Last Present https://t.co/LuqTpB1Yke @YouTubeさんから クッソきもいオタクだから、未だにこれが大好きで時々見たくて仕方なくなるんけど、エロゲ特有のポップさと、一人の人間と長く交流することで、相手と自分の昏さを通じ合わせる快感がよく表現されている
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
であって、全然最近の話じゃないんですが、エロゲギャルゲ特有のドラマツルギー(話の運び方くらいの意味で使っています)ってあるなあと。
相手の昏さを知る、自分がそれを受け入れる覚悟をする、というのは一種のセオリーで、プレイヤーの絶対的優位性に立脚しつつも快感に昇華したものだと思っていて、それは理想的な恋愛の姿ではない(プレイヤーの心情による)場合もあるが、その根幹に強く同情の念が働いているのは、注目に値する
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
同情の事については以前の記事で詳細に語ったので参照まで。
人のためになりたいという利他心と、他者に施す優越感とを根源にしつつ、それを、カワイイヒロインを相対的に弱らせることによって感じさせる。プレイヤーたる自己の開示は結構扱いが難しいと思うが、概ねそれが行われるのがメインヒロインルート.
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
プレイヤーたる自己の開示、とは、要するにプレイヤー≒主人公自信が、どう思ってどう行動するかという事をはっきりさせる、という事です。ギャルゲやエロゲでは、各ヒロインのルートに足を踏み入れるか否かの決断に象徴されるかと思いますが、過去にあった出来事や失敗を自ら認め、その上で、次の行動を積み上げようと決断すること、と大きくくくってもよいかもしれません。大体この最初の反省部分がないと、微妙なシナリオになったり、バッドエンドに行ったりしがちです。
そして、その選択をしたという実感をプレイヤー側に持たせることが、ストーリー上重要なわけですが、
プレイヤー自身に覚悟を決めさせる、というのはノベルゲーにおいては結構な大イベントであり、しかもそれが主人公自身の人間性や過去と連続する情報(≒弱さ)の開示と反省による以上、まさに主人公自身の決算ともいえる行為になるわけで、だからこそメインルートたり得る
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
自分(プレイヤー)しか知り得ない主人公のある種の罪(怠惰さや、過去の間違った選択、偏見や傲慢さ) それを弱さと認める態度を、それほど大きく見る理由は何なのだろう? より大きな弱さを前にしないとそれを開示できないのは、ある面からみれば不思議な話でもある。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
つまり、プレイヤーが自らの過ちを認めるために、あえて目の前に弱った存在を提示している。こいつには攻撃されないという安心、あるいは同情心、あるいは逆に、そうしなければならない強烈な圧力がなければ、プレイヤー自身は自らの過ちを認めることに消極的であると。そもそも娯楽のためのゲームなのだから、自らが反省することがコンテンツというのはだいぶ倒錯しているのかもしれない。
余談だけど、この原則はUndertaleで極大化されている。プレイヤーをキャラに埋没させるために、行為の決算を行わせるシステムはあのゲームの根幹と言ってもよく、それを罪と明言して、それを受け入れる自らを開示(自覚)せよ、と。そして、そこから更に一歩先に進むための仕掛けが沢山ある
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
ここでUndertaleの話になるわけです。反省し、次の行動を選択せよと迫る。ケツイの構造は、プレイヤーを主人公とを同一化させることに腐心し続けてきたエロゲギャルゲの歴史の果てに生み出された方法論に依拠していると、考える事が出来ます。
エロゲ的方法論があらゆる方面に影響を与えているとはとても言い切れないが、この「罪を自覚する自己」は、形を変えつつも、我々に衝撃を与え続けていると言えるかもしれない。一方でUndertaleの、半ば押しつけに近い罪の指摘に較べて、エロゲ的主人公は、それを弱さとしてなかなか開示しない
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
Undertaleの主人公は喋らないし、(高度にコントロールされているとは言え)プレイヤーの行為までは規定しない。一方ノベルゲーは行動がどうしても限定してしまうから、プレイヤー全員をある程度納得させる必要があるというのはまあ間違いない話ではある
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
まあアケスケな話だけど、主人公が素直すぎると業が深くならなくなるので、ノベルゲーではプレイヤーの行動を大きく規定する以上は、多少拗れさせた分の補填をしないといけないのだろうと。
DDLCもUndertaleも、最終的にはプレイヤー自身の行動を誘発するように作られてるけど、前者は別にプレイヤーのゲームプレイそのものを責め立てる仕組みではない(プレイヤーの心情による)ので、この視点で見れば、構造が違うと言えるのは面白いところ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
いずれにせよ、二つともゲームプレイの根幹に、プレイヤーのケツイを求めていて、これはゲームプレイにおける本質の一つ(何せ読んで選択肢を決めるだけでゲームとされる)であると言えるだろう。
そんでまあ、映像媒体では「罪を自覚する自己」の表現って結構難しいよねっていう所で落としとこうかな。レミゼラブルの冒頭とか? 信仰心と困窮は、視聴者を納得させるけど、いずれ他人事ではあるよね
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月12日
だからこそ、映像はいかにすればよいのか……ゲームも作ってみたいものだな、と思うきっかけでもあって、やっぱりUndertaleは素敵なゲームです。DDLCも。
動きをどう呼ぶかの話
前回の引用ブログがクソ長くなってしまったのの反省です。あれは読まなくてもいいです。備忘録。
今回はアニメつくりながら少し考えたこと。
実写で萌えアニメっぽい芝居(特にコメディアクション)して浮く、というか何か居たたまれなくなるのって、結局はその芝居が出てくるテンションまで映像のノリが引き上げられてないからなのだな。逆を言えば一旦、映像のノらせ方が判れば、意外と実写でも大仰なコメディ芝居が成立できるのかも
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月24日
動き全般を「モーション」
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月4日
感情を伝える仕草を「芝居」
キャラを伝える振る舞いを「ムーブ」
と、何となく分類している。
ムーブと簡易な文脈だけでも実はコンテンツは成り立つ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月4日
これは最近はやりのVtuberを意識した発言です。実は人の振る舞いだけでも、結構見てられる場合があって、緩さを極めたタイプの日常萌アニメとかもこの文脈上にあるような。
下手すると感情の深い芝居は、コンテンツとしてバランスを欠きかねない危険なものですらある。ムーブと芝居のバランスは、常に問題だ。自戒として。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月4日
芝居の深さと芝居の大きさは比例しないので、その辺に道は割とある印象
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月4日
自分の作ろうとするコンテンツにそもそも芝居が必要なのか。その芝居はどれくらいの深度にするのか。大げさなモーションでも伝わる感情がスカスカ(芝居としては大きいが浅い)、という場合もあって、それをうまく使えているのか、とか。考えようのある部分で、アニメを自分で考える上では結構指標になりそうな分類だと自分で思っています。
アクションシーンも、大きければいいのか、派手であればいいのか、アクションモーションを作るのか、アクション芝居を作るのか、考えようはありそうです。
長い愚痴。正義とか、正しさとか、そういう話
自分がそう思うようになった経緯、他人がそう思うようになった経緯。自分と思想が違う人、年齢が違う人、違った人生を歩んできた人の来し方を思わずに、その有り様の価値を定めることは、苛烈さを伴う虚しい行為だと思うよ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月9日
こう、偏る人って、意味不明ってよく言う。文脈や、合間に語られなかった事象の連続性に興味が無かったり、受け流さないと処理しきれないような情報過多に陥ってる。素早い情報の取捨選択は現代的だけど、それでさっきの事すぐ忘れて、ツギハギだけで現実を作る人ばかりになると、本当に悲惨だと思う
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月16日
恐ろしげなものの力を背に負っているうちは、自らが強くなったような気にもなれるが、ある意味では、そうできるだけの鈍感さが、恐ろしいものたちの触媒でもあるのだろう。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月9日
批判する方も、行いを糾す批判と、世に問う批判とを混同すると大変なことになりがち。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月19日
さらに言うと、人同士が致命的なやり取りに至らず、集団の潰滅が起こらない様にする程度の最低限の倫理に基づく正しさと、自分の周辺の社会習慣や、過去の経験に基づいた判断と、思想に基づく峻別基準とを混同すると、もう地獄だよね。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月19日
見切り発車で物事を見定める、そのときに我々が無意識にも、空想と仮定とを大量に担保にしていることを忘れてはならない。たとえ一面の事実に依拠した発言であっても、それは容易に変形し、矛盾し、変化する。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月16日
論理だけで明確に答えが出るような問題でない以上は、語るなら人の来し方を思わねば、自らの好悪と態度以上に表されるものはない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年10月13日
一つのことにこだわり、情報を積み上げて真実の姿をなんとか定義しようとする人を、疎かにしてはいけない。その人は鈍いわけでも、時代遅れな訳でも、みっともないしみったれたケチでもない。そういう人から見れば、我々が拙速なだけだ。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年7月16日
いろいろな愚痴。
リスクがない方向ない方向と、何かが起こってから逃げるように考え始めるけど、どちらの道を進む内にもそれなりのリスクが常にあるから、大事なのはマネジメントしていくという意識なはずなんだけど、すぐどっちの道が正解だったみたいな話を……
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年9月7日
「正しい」と言うより「善いことをしている」と言った方がまだ実態に近いし、さらに言えば「私は○○にとって良い事をしている」といった方がより正確で。もっと言えば「私は××の思想(or経験)に基づいて、○○にとって良いことをしている」と言ってはじめて、落とし所も見えるようなものだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年8月19日
守ることを正しさだと思うと間違う。自己満足に陥るから。救う事を正しさだと思うなら、まだまし。対象の他者が幸福にならなければ達されないから。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
宗教が絶望の淵で踏みとどまるだけの機能を有するのも、それを徹するためならば、納得できる気がする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
正しさの成す御業を、仮に正義の顕れたものとするとき、それは善悪の区分けとはまた別のものだと言う気もする。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
いずれにしても、誰かを救うためにはあらゆる人間関係上の、精神的・肉体的困難に耐える必要があり、それを易々と徹する事ができる人などそうは居ないのだ。我の存在が救済行為そのものに依拠でもしない限りは、普通の自我にそんなことはできない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
守ることを正しさと言い、妥当なことを正しさと言い、導くことを正しさと言い為すのは、第一級の語弊だと判ずる。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年11月14日
守るために戦うのはもう自分の中では成立しないや。自分自身か、他人かを、救うために現実にぶつかっていく、その行為を戦いとするしかもうしっくりとこない。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年12月1日
無自覚に、本能的に、欲望に従って奪い合うのは争いで、他者への不愉快さをお互いに発散し合うのは諍いだ。しかしその欲望が自己救済に寄与するなら戦いと言えなくもない。この辺の微妙なニュアンスは極めて私的な感覚の話だけども。
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年12月1日
以前からのテーマの一つ。ヒーローでも、光と闇万能論から、守る力なら許される論がずっと展開されてきて、それがそろそろ限界かもしれんと感じ始めている。その先は何なんだと、自分に問うと、救うという事、しか残されてはいないのではないか。結局、光というのはそれを極度に抽象化したものだったろう。人を信じ、助けようとする姿はすでに描かれてきていて、だがもしかしたら、そこしか戻るべき場所はないのではないかという。
なんで宗教の話が一瞬出てきてるかというと、大杉漣さんの「教誨師」を見てきたからです。
大杉漣さん最後の主演作「教誨師」を見てきました。きわめて秀でた芝居とシナリオ。抑制された演出。矛盾塊の前で右往左往する姿を、視聴者という安易な姿でじっくり見られる幸福。狂気の淵での信仰という行為そのものの超越的な強さ、精神作用の不思議さを見る。 https://t.co/HUHgquxqOE
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年10月7日
それぞれの登場人物にほとんどドラマ的連携がないものを、うまく繋いで見せている。シナリオ、演出は元よりだが、そこに通底するある種の一貫性は、役者たちの一体感と、それを繋ぐ大杉氏の、迷いながらも確信的な姿。更に言えば信仰というものに対する彼なりの深い理解の上に成立していたと言えそうだ
— まフェ (@Magenic_Cafe) 2018年10月7日
おすすめの映画です。