創作+αの色々Ⅱ

 昨日の続き、古いツイートのまとめです。

 

・抽象と現実と人間

  リアルとファンタジーの、良いバランスの所に創作はあってほしいよねと言う、ごく当たり前の話があり。登場人物は、抽象的な人間の類型や解釈(イメージやパターン)と、史実や仮定された現実的行為(リアリティ)との間を行き来する、と。

 

 僕たちは類型や推測によって未来を想定する、そこに結果がもたらされて、僕らは納得したり不満を持ったり、驚いたりする。時系列を楽しむという事の原理。

 

・言葉のちがい

  お芝居に関わって少しテキストをお手伝いさせていただいたのですが、映像との違いを実感したのでした。

 

・恋愛とは

   割と自分の中で結論がはっきり出ている。

  いずれにせよ、相互の存在承認が、人間関係のきわめて本能的な欲求であると考えています。

 

・作品と地続き感とVtuber

 作者と作品を切り分け、自分と他人を切り分け、地続き感(関係性)を排して対象を正確に受け止める。これはある意味、理性的で、進歩的な態度と言える面もありそうだ。

  人格と、コンテンツとの線引きはどこなのか。

 ここでも、僕は無意識に、人格同士で行われるコミュニケーションを除外して考えているようです。あくまで一方向のコンテンツを想定していて、そこには当然、人が人である理由は(相対的に)希薄なのです。

 

 

創作の色々

 最近ツイートをまとめられてなかったので、古い所から遡っていこうと思うのでした。

 

・わからないものについて

https://twitter.com/Magenic_Cafe/status/1071349710038851584

https://twitter.com/Ma

 個人的な嗜好として、難しいものの方が好きだし、言語化できないものが伝わるという事のすごさを感じる訳です。それを魂と言う言葉に代入してみたりもする。けれど、それが結局何なのかは判らない訳です。

 蛇足で言えば、文脈の違うものを排除しないようにする自戒でもあります。

 

・描写と話の筋と、その比重と

  ちょっとややこしい言い方ですが、キレイであることは、ある表現を達成するための要素の一つだよ、という事です。

 ざっくりと作品を、話の筋(≒ストーリー)と演出とに分けて捉えています。表現に説得力があるという事は、納得できるというだけでなく、体感もできる(前述で言えば、作者の魂を受け取ることができる)つまり、表現が理想的な姿で達成されている状態を言っています。その達成の為に描写、つまり演出がある。

 ここでは、キャラクターや世界の設定なども、描写されなければ物語上に存在しないものとして考えているので、物語上に現れるすべての要素は、時系列(話の筋上)に羅列される描写の総体、としています。

 ここまで僕は無意識に、語られるもの、つまり、映像であったり小説であったり漫画であったりという、一方向のメディアについて語っていたのでした。ある種のゲームや生配信やと言ったものにはそれだけでなく、コミュニケーションの要素が含まれてきて、これを全く想定の外に置いています。

 この二つ目のツイートも、インタラクティブ性について語っているように見えて、あくまで読者の反応を想定したものでしかなく、その反応が作品の本体には関わらないものとしています。

 もちろん、一方向のメディアでも、友人同士での共有やイベントへの発展など、別途コミュニケーションの要素が生じる場合もあります。

 コミュニケーション(互いの人格の交流)は、表現を測る第三の軸と言ってよいでしょう。

 

・昭和の価値観

 そんなもん想像する勝手なイメージな訳ですが。

  まあ、主観的な感想です。

  そんなような。そうでないような。備忘録程度に。

 

 

 今日はいったんこれくらいにしておこうと思います。

 

 

enic_Cafe/status/1071348638855491585

百合小説に目覚める

進捗を殺してくれた理由の一つ。久々に新作のオリジナル小説を書きます。書いてます。

これに向けて。

www.pixiv.net

 アニメシナリオを書いたり、ボイロ二次創作したり本を読んだり映画を見たりしながら、今年一年収集してきたものをうまく抽出できればと思います。ご期待ください。

 

進捗の話

 

 という事で、突然ブログを再開したけれど、実際はもっとリアルタイムでTwitterでつぶやいた内容を随時まとめるような運用をしようと思っていたんです。

 結局年末まで持ち越してしまったのには、アニメーション(拳闘の春風)の進捗がまあ、ある程度まで行き、メインのモーションが8割がた出来上がって、あとは口パクと小道具とエフェクトと、という所で、そろそろ広報的な活動もやっていかないとなあという意識が芽生え始めたため。

 と言っても今日出せるものはないんですが。(実家のPCのためデータがない)

 

 今年一年間はただただアニメーションを作る作業でした。(息抜きの創作とかもしてますが)年末に至り、上記の通り、アニメーション以外でもちょっとだけ動いています。小説書いたり、SmileGameBuilder触ってみたり。あと、モデル作ったりね。

 SmileGameBuilderに関してはまた記事を書きたいですね。アクションゲーっぽいものを作ろうと試行錯誤した結果をまとめられればと。

 というわけで、来年は追々、何か形になったものを発表できる一年にしたいものです。

 

 

ケツイをコンテンツにするという事

  Undertale本当に面白いですよね。DDLC(DOKIDOKI文芸部)も。ストーリー構造になんだか日本のコンテンツめいた雰囲気があるなあと思うわけですが、その理由はここにあるんじゃないかという、推察です。

 話の発端は

 

であって、全然最近の話じゃないんですが、エロゲギャルゲ特有のドラマツルギー(話の運び方くらいの意味で使っています)ってあるなあと。

 

 同情の事については以前の記事で詳細に語ったので参照まで。

magenic-cafe.hatenablog.com

 プレイヤーたる自己の開示、とは、要するにプレイヤー≒主人公自信が、どう思ってどう行動するかという事をはっきりさせる、という事です。ギャルゲやエロゲでは、各ヒロインのルートに足を踏み入れるか否かの決断に象徴されるかと思いますが、過去にあった出来事や失敗を自ら認め、その上で、次の行動を積み上げようと決断すること、と大きくくくってもよいかもしれません。大体この最初の反省部分がないと、微妙なシナリオになったり、バッドエンドに行ったりしがちです。

 そして、その選択をしたという実感をプレイヤー側に持たせることが、ストーリー上重要なわけですが、

 つまり、プレイヤーが自らの過ちを認めるために、あえて目の前に弱った存在を提示している。こいつには攻撃されないという安心、あるいは同情心、あるいは逆に、そうしなければならない強烈な圧力がなければ、プレイヤー自身は自らの過ちを認めることに消極的であると。そもそも娯楽のためのゲームなのだから、自らが反省することがコンテンツというのはだいぶ倒錯しているのかもしれない。

 ここでUndertaleの話になるわけです。反省し、次の行動を選択せよと迫る。ケツイの構造は、プレイヤーを主人公とを同一化させることに腐心し続けてきたエロゲギャルゲの歴史の果てに生み出された方法論に依拠していると、考える事が出来ます。

 まあアケスケな話だけど、主人公が素直すぎると業が深くならなくなるので、ノベルゲーではプレイヤーの行動を大きく規定する以上は、多少拗れさせた分の補填をしないといけないのだろうと。 

 いずれにせよ、二つともゲームプレイの根幹に、プレイヤーのケツイを求めていて、これはゲームプレイにおける本質の一つ(何せ読んで選択肢を決めるだけでゲームとされる)であると言えるだろう。

 

 だからこそ、映像はいかにすればよいのか……ゲームも作ってみたいものだな、と思うきっかけでもあって、やっぱりUndertaleは素敵なゲームです。DDLCも。

動きをどう呼ぶかの話

 前回の引用ブログがクソ長くなってしまったのの反省です。あれは読まなくてもいいです。備忘録。

 今回はアニメつくりながら少し考えたこと。

 

 これは最近はやりのVtuberを意識した発言です。実は人の振る舞いだけでも、結構見てられる場合があって、緩さを極めたタイプの日常萌アニメとかもこの文脈上にあるような。

 自分の作ろうとするコンテンツにそもそも芝居が必要なのか。その芝居はどれくらいの深度にするのか。大げさなモーションでも伝わる感情がスカスカ(芝居としては大きいが浅い)、という場合もあって、それをうまく使えているのか、とか。考えようのある部分で、アニメを自分で考える上では結構指標になりそうな分類だと自分で思っています。

 アクションシーンも、大きければいいのか、派手であればいいのか、アクションモーションを作るのか、アクション芝居を作るのか、考えようはありそうです。

長い愚痴。正義とか、正しさとか、そういう話

 いろいろな愚痴。

 

 以前からのテーマの一つ。ヒーローでも、光と闇万能論から、守る力なら許される論がずっと展開されてきて、それがそろそろ限界かもしれんと感じ始めている。その先は何なんだと、自分に問うと、救うという事、しか残されてはいないのではないか。結局、光というのはそれを極度に抽象化したものだったろう。人を信じ、助けようとする姿はすでに描かれてきていて、だがもしかしたら、そこしか戻るべき場所はないのではないかという。

 なんで宗教の話が一瞬出てきてるかというと、大杉漣さんの「教誨師」を見てきたからです。

kyoukaishi-movie.com

 

おすすめの映画です。